鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その6

2008-05-19 04:57:34 | Weblog
この「三四軒屋緑道公園」の所在地は、富士市五貫島。三四軒屋の西側にあたり、また富士川河口部の東側になります。ここに野外展示されているディアナ号の錨(いかり)は、富士市有形文化財(建造物)になっています。錨の全長は4m余、爪長はおよそ3m、重量は約3トン。長い鎖が付いています。あらためてその大きなことに驚かされます。ロシア軍艦ディアナ号(フレガート型)は3本マストの木造帆船。通詞堀達之助の下田奉行宛の報告によれば、長さ175フィート(三十三間余・53m余)、幅46フィート(八間余・約14m)、深さ40フィート(七間余・約12m)というものでおよそ2000トンの大型帆船。大筒は52挺(緑道公園の案内板には大砲60門とある)を装備しており、その内訳は、上段22挺、下段30挺でした。この大筒52挺は、下田港での津波による破損で漏水が生じた時に、重量を出来るだけ軽くするために揚陸されました。したがって三軒屋浜の沖合いで沈没した際には、大筒はおそらく装備されてはいなかったと思われます。このディアナ号の錨は、昭和51年(1976年)の8月3日、富士市と田子の浦漁業協同組合によって、沖合240m、水深約24mのところに沈んでいたのを引き揚げられました。このディアナ号の錨は、地元漁民や住民から「唐人のねっこ」と呼ばれていたようです。というのは、「富士ニュース」の「ディアナ号来航8 唐人の根っこと錨」によれば、三四軒屋付近には、漁師が網を仕掛けると必ずといっていいほど海中の障害物に引っかかり、網が破れてしまう難所があって、漁師たちはそれを「唐人の根っこ」と100年ばかりも恨みをこめて呼んでいたというのです。漁師たちはその「唐人の根っこ」の除去を長年の願いとしていました。引き揚げられた当初、その錨はディアナ号のものとは確定できず、田子浦小学校の東隣りの忠霊廟に置かれていました。それから30年後、ディアナ号の沈没に興味を持っていた清水市のダイバー望月昇氏により、もう一つの大きな錨が発見され、専門家らの調査によってディアナ号のものと断定されたのだという。昭和62年(1987年)の7月には、「ディアナ号探査会」が立ち上げられ、翌年6月に調査船で探査が行われたものの、ディアナ号らしきものは見つからなかったという(「富士ニュース」の記事による)。木造船のためおそらくバラバラになったのでしょう。 . . . 本文を読む