鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その7

2008-05-21 06:12:44 | Weblog
 富士山関係の展示では、オールコックの関係で、村山浅間神社に関するものが興味深いものでした。村山浅間神社は、正確には「富士根本宮村山浅間神社」。かつては富士山興法寺(こうぼうじ)。末代(まつだい)上人(しょうにん)を祀る大棟梁権現、大日如来を祀る大日堂、浅間神(せんげんじん)を祀る浅間社がありました。そして大鏡坊(だいきょうぼう)、池西坊(ちせいぼう)、辻坊(つじのぼう)の三坊がそれぞれを管理していました。明治になって神仏分離政策が進められ、村山浅間神社となって現在に至っています。

 大棟梁権現として祀られていた末代上人とは、12世紀中頃の人物で、実相寺を開山した智印(ちいん)上人の弟子であって、富士登山を数百回行い、富士山頂に信仰の場である大日寺(だいにちでら)を造った人であるらしい。その後、即身仏となって村山に祀られたと伝えられることから、村山が富士山における修験道の拠点の一つとなったということであるらしい。

 富士山興法寺は、戦国時代には多くの宿坊を構え、とくに京や大坂などから多くの登山者を迎えて繁栄したのだという。江戸時代にも「富士道者(どうじゃ)」たちが水垢離(みずごり)をしてこの村山から富士山に登り、それなりに賑わっていましたが、次第に村山から登る人々は減少し、吉田口が関東を中心とした富士講信者を集めて賑わうようになったとのこと。

 オールコックが外国人として初めて富士山に登頂した幕末においては、すでにこの村山を起点とする登山道は衰退していたということになります。

 明治39年(1906年)、村山を通らない新しい登山道(大宮口新道)が造られたため、村山の登山口としての機能はほとんど失われてしまったということです。

 この村山口の登山道の衰退に拍車をかけたのは、明治22年(1889年)の東海道線の開通でした。そまで静岡県内には村山口・須山口・須走口という三つの登山口があったものの、明治16年(1883年)に御殿場口が新設され、東海道線が明治22年に開通(現在の御殿場線のルート)すると、駅から近い御殿場口が賑わうようになり、他の登山口はいっそう衰退していくことになりました。

 博物館には、「古(いにしえ)の登山道~村山口登山道を歩く~」との案内があって、頂上までのルートが紹介されていました。

 河合橋→左富士→鯛屋旅館(吉原宿)→釈迦堂→聖観音→村山浅間神社→札打場跡→西臼塚駐車場→中宮八幡宮→1600m標識→小屋跡→大日堂跡→頂上

 というルートです。この登山道については、「お気軽に事務室まで」とありました。詳しい方がいらっしゃるのでしょう。

 帰宅してからネットで調べてみると、この村山登山道については、平成3年(1991年)に、富士宮市が50周年記念事業の「富士山村山口登山道の復活」の一環として調査を行なったものの、平成8年(1996年)の台風17号の襲来により広範囲に被害を受けて通行不能となってしまっということです。しかし平成15年(2003年)からふたたび整備が行なわれ、平成17年(2005年)、100年ぶりに復活することになったそうです。村山から新六合目まで、標高500mから2500mまでの標高差2000m、約14km、時間にしておよそ10時間の登山道になります。目印として500枚の赤い布が付けてあり、また地元の方々による村山浅間神社から天照教社までの20本ほどの道標も立てられているとのことです。

 機会があればぜひ登ってみたい登山道です。

 特別展示室の企画は「富士山麓に生きる大淵のくらしと稲垣家」というものでした。

 その企画を観た後、博物館を14:35に出る。

 この博物館には、「広見公園ふるさと村」という野外展示がありました。これがなかなか面白かったのです。


 続く


○参考文献
・「第2展示室解説シート」(富士市立博物館)
・「常設展示解説シート」(富士市立博物館)
ネット
・「身延線の歴史」
・「紙のまち鷹岡」
・「洋紙製造発祥の地」
・「村山登山道」


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