鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その5

2008-05-05 06:21:47 | Weblog
話は少し戻ります。箱根の峠道でディアナ号座礁の注進を受けた英龍は、三島よりそのまま東海道を西進し、その日の夜、宮島村の近くの鮫島村に到着。手代たちを、上陸したロシア人救助のために三四軒屋浜に急行させます。上陸したロシア兵たちはそのほとんどが浜の川原に露営していましたが、プチャーチンとその士官の一部は、三四軒浜のかろうじて地震で倒壊しなかった一軒の人家に入っていました。手代たちは、さっそく近隣の村々に申し付けて白米を取り寄せ、三四軒屋浜の村人たちに炊き出しをさせます。その炊き出しのご飯を、馬の飼葉桶のような大きな桶に入れておき、いつでもロシア兵たちがすくいとることが出来るようにしました。薪や木材を集めて暖をとらせ、また小屋掛けを作らせたりもしました。付近の村々は「安政の大地震」のために大きな被害を受け、宮島村においても損壊を免れた家はほとんどなかったにも関わらず、村人たちは、上陸の時ばかりか上陸後においても、ロシア人たちの救援のために奔走しました。村人たちの自発的な行動もあったと思われますが、これらの救助活動一切を指揮したのは韮山代官江川太郎左衛門英龍であったでしょう。近隣の村々を始め、この地域の人々はみな江川代官のことを知っていたはずです。江川代官が出張ってきたこと、ロシア人たちの救助の指揮をとっていることを知った人々は、自らが、震災による、そして震災からの復興という難儀に直面しているにも関わらず、おそらく積極的にロシア人救援に当たったのではないかと、私は推測しています。それほどに、地域の人々からの厚い人望を、韮山代官江川英龍は受けていたのだと思うのです。 . . . 本文を読む