プチャーチンをはじめとするディアナ号乗り組みのロシア人たちは、この吉原宿を通過したのか。それがどうもわからない。今回の取材旅行でもちょっと調べてみましたが、結局は判明しませんでした。原宿や沼津城下(一部)を通過したのは確実です。ところがこの吉原宿についてはよくわからない。現時点での結論としては通過しなかったのではないか、というのが私の推測です。その根拠の一つは、幕府側は、多数のロシア人が東海道の宿場を通過する事態を出来るだけ避けようとしただろう、ということにある。大地震の被害が甚大であったから、宿場の負担を出来るだけ減らす方向で対処しただろう。吉原宿を通過するとなれば(ロシア人だけでも計400人以上)、それなりの警備やロシア人への対応を宿場に要請せざるをえない。二つ目の根拠は、宮島村の三軒屋から東海道まではかなり離れていることにある。田んぼの中の一本道を北東に進んで、吉原宿まで一里(4km)ほどはある。かなり迂回するかたちで原宿方面へ向かうことになります(これは吉原宿が元吉原→中吉原→新吉原と所替えしたことによる)。それよりも、三軒屋から駿河湾の松林添いの道を東に進み、鮫島村を通過して、田子の浦港を船で渡り、元吉原から東海道へ入るのがもっとも手っ取り早い。江川太郎左衛門英龍は、ディアナ号座礁を聞いてただちに宮島村に向かいますが、原宿を通過してその日の夜に鮫島村に到着し、また堀達之助も深夜に鮫島村に到着しています。鮫島村へは、田子の浦港を舟で渡れば、元吉原(東海道)から目と鼻の先。江川も堀も、吉原宿を通過するわざわざ大回りのコースをたどらなくて、最短経路を選んだのではないか。となると、プチャーチンら一行も、田子の浦港を船で渡って東海道に入ったのではないか。そう思われてくるのです。これはあくまでも推測であって、実際のところはいろいろ調べていく必要がある。はじめのうち、プチャーチン一行は吉原宿を通過した、という書き方を当然の如くしましたが、ほんとうにそうであったか。確かめていくと、実ははっきりとはしないのです。安易に思い込みで書いていくと、大きなミスを犯してしまうことになりがちです。はたしてプチャーチン一行が吉原宿を通過したかどうか、これはひとまず保留にしておきたいと思います。ご存知の方がいれば教えていただけるとありがたい。 . . . 本文を読む