鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その4

2008-05-02 06:14:09 | Weblog
宮島村を出立し、東海道を沼津城下まで歩いた、沈没したディアナ号の乗組員であるロシア人たちの、その歩行のようすはどういうものであったのか。12月6日のプチャーチン以下210名の一行に付き添っているのは、勘定奉行川路が厚く信頼する部下である勘定組頭の中村為弥、オランダ語をほぼ同時通訳できる御普請役森山栄之助(長崎出身の元オランダ大通詞)、小人目付ら。それに警護の沼津藩兵200余名(ロシア人一人に一人の割合で警護についたのかも知れない)。彼らは、プチャーチンによれば、「京都から江戸へ通ずる平坦な大道」、つまり東海道に出て、原宿→沼津城下→市場の渡し(狩野川を越える渡し舟・現在の御成橋〔おなりばし〕の辺りにある)→江ノ浦(1泊)→西浦→真城(さなぎ)峠→戸田村というルートをたどっているから、東海道は、宮島村最寄の地点から沼津城下の現在の「本町」付近の「市場の渡し」の手前まで歩いたことになります。ということは本町の先や「川廓(かわぐるわ)通り」などは通過していないことになる。 . . . 本文を読む