鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その6

2008-05-19 04:57:34 | Weblog
 緑陰のベンチに座り、またディアナ号の錨やプチャーチンの像などの写真を撮ったりしてしばらく休憩した後、県道341に出て右折。早川橋を渡り、突き当たりを左折。右手のコンビニ(ファミリーマート)に立ち寄りトイレ休憩。店の人に鮫島地区のことについて聞き、旧鮫島村のあたりを通過して富士市立図書館に向かいました。

 富士市立図書館に到着したのは12:43。

 立派な図書館でした。

 1階に「郷土資料」のコーナーがあり、また「紙」や「富士山」についての本が集められたコーナーもたいへん充実したものでした。古典本の復刻本や『東海道分間延絵図 1~24』、『日本地図選集』などといったものも展示されていました。

 富士市関係の史・資料はもちろんのこと、静岡県全域の関係資料(西部・中部・東部・通史と分けられる)も充実したものでした。

 いく冊かの資料をチェックした後、13:12に図書館を出て、今度は富士市立博物館
に向かいました。

 到着したのは13:30。ここでは市内大淵下原にある市内でもっとも古い茅葺き屋根の民家「稲垣家住宅」に関する展示がありました。この稲垣家は築200年を越えるという古民家。今年中に、この市立博物館がある広見公園に移築されるとのこと。

 吉原宿についての展示も興味あるものでした。野口脇本陣の宿帳には、ここに泊まった「諸家様」の記録が残されています。また文政9年(1826年)4月6日には、オランダ商館長一行が吉原宿でお昼の休憩をとっていますが、この一行の中には、あのシーボルト(1796~1866)が医者として加わっていました。

 吉原宿長谷川本陣の百分の一模型も展示されています。

 鈴川村から、吉原湊を渡し舟で渡り、鮫島村→川成島新浜→宮島村三軒屋→五貫島へと続く道筋(ルート)があったことも知りました。これがおそらく明治になって「便道」と呼ばれる東海道の(大きく迂回するルートを避ける)近道となったのでしょう。

 1918年(大正7年)刊の『広重画五拾三次現状対照東海道』からの「吉原」の写真は、松並木がうねうねと続く田んぼ道が写っており、ほとんど広重の「吉原」と同じであることに驚きました。大正時代〔もしくは戦後しばらくまで(昭和30年前後)〕は、江戸時代の風景の名残りが日本列島いたるところに残っていたのではないか、と思わせる写真の一枚でした。

 中吉原宿は、延宝8年(1680年)の閏8月6日、大型台風による高潮と洪水により甚大な被害を受け、現在の吉原本町に所替えすることになりますが、新橋の橋詰に津(湊)があって、そこまで川を江戸廻船が遡行していたのだという。

 ディアナ号の遭難に関する展示も見応えがありました。プチャーチン一行が、原宿の渡邉本陣や昌源寺で昼食を摂ったこと、江ノ浦の照江寺で宿泊したこと、木負の満蔵寺で昼食を摂ったことなどは、ここで知りました。

 ディアナ号の40分の1の模型も展示されていました。船の前部と後部の左右には錨が付いています。あの1基が三四軒屋緑道公園に、もう1基が戸田の造船郷土資料博物館に展示されているのです。

 伝法村の伊藤連次郎の手記も展示されていました。

 鈴川(吉原駅)から依田橋→吉原町→長沢を経て大宮町(富士宮)に至る馬車鉄道が走っていたこともここで知りました。開業は明治23年(1890年)。私が歩いたあの通りを馬車鉄道が走っていた時代があったのです。


 続く


○参考文献
・『ヘダ号の建造』(戸田村教育委員会)
ネット
・「富士ニュース」(「ディアナ号来航8 唐人の根っこと錨」)


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