鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その4

2008-05-02 06:14:09 | Weblog
 さて、ロシア人たちの東海道を進むようすはいかなるものであったのか。

 彼らは宮島村の三四軒屋浜に上陸した時、高波のためずぶぬれになりますが、この時までには衣服はすっかり乾いていたことでしょう。ほとんどのロシア人たちは徒歩で行進しましたが、病人には駕籠が用意されていました。その数は分からない。使節であるプチャーチンにも駕籠が用意されていた可能性がある。

 ロシア人たちは、銘々食料を担いで、三列縦隊になって整然と進みました。しかも片側を空けて進んでいます。街道を通る人々への配慮でしょう(おそらく通る人はいなかったと思われますが)。列をはみでる者がいると上官から鞭(むち)で叩かれたといいますから、厳正な指揮が行き届いていたことになる。けしてだらだらとした行進ではなかったのです。

 記録によれば、彼らの歩行のスピードは速かったらしい。プチャーチンも速かったというから、駕籠には乗らずに歩いたのかも知れない。

 沿道には、通り沿いの村々の老若男女が多数出て来て、ロシア人たちの行進がやってくるのを待ち構え、通り過ぎるのを見送りました。中には、その行列の後をついていく人たちも。子どもたちは、「唐人だ、唐人だ!」と口々に囃(はや)し立てて、行列の後を追いかけていったかも知れません。

 沿道の宿場(原など)では、卵やサツマイモを用意してロシア人たちに応対。

 ロシア人たちは、原宿で休憩を兼ねた昼食を摂っています。原宿(西町)の昌源寺には、プチャーチン一行が立ち寄って休息したという話が伝えられているということですから、おそらくプチャーチン一行は一般の旅籠(はたご)などではなく、原宿内のお寺かあるいは本陣で休憩をとったと思われます。

 前月の11月4日に起きた安政の大地震によって、東海道筋は大きな被害を受けていましたが、原宿はどういうわけか被害は比較的軽微でした。お寺も倒壊せずに残っていたのでしょう。

 プチャーチンは、先に江ノ浦から沼津を経由して宮島村まで歩いた時に、原宿が比較的被害が軽微であることを知って(お寺がたくさんあり、しかもそれらがほとんど無傷で残っている)、原宿にロシア人たちをしばらく滞在させることを中村為弥や江川太郎左衛門に訴えますが、これは一蹴されてしまいます。

 「東海道」というきわめて重要な官道の宿場町に異国人をとどめることは、いくらプチャーチンの要請であるとはいえ、受け入れらることではない。受け入れ体制の出来ている戸田村へなるべく早く送り込むことが、中村や江川に課せられた最重要の任務でした。結局、プチャーチンは折れました。

 その原宿で昼食・休憩の後、沼津城下に向かって出発。

 通りの左側には、真っ白な雪を全面に被った富士山がきれいに見えていたことでしょう。

 大塚新田→三本松→松長一里塚を経て、間門(まかど)八幡前より沼津藩領に入り、市道(いちみち)を経て沼津宿の入口である西見付を通過。狩野川の手前で左折して現在の本町(魚町)に入り、途中で右折して狩野川の河岸に下り、そこから対岸の市場村へと渡る渡し舟に乗りました。

 この「市場の渡し」のあった地点は、現在の「御成(おなり)橋」の辺り。ここには、江戸時代においては橋はありませんでした。

 「市場の渡し」を渡ったプチャーチン一行は、そこから、その日の宿泊先である江ノ浦へと向かいました。

 沼津の「本町」は、かつては「上土(あげつち)町」と呼ばれていました。狩野川水運の集散地であるために多くの問屋が並び、またその問屋の土蔵なども密集していました。また本陣や脇本陣があり、当時の宿場の中心地でした。この上土町と、狩野川の向こうの市場村を結ぶ渡し舟があって、それが「市場の渡し」と呼ばれていたのです。


 続く

○参考文献
・『写真集 沼津今昔100景』瀬川裕市郎編著(羽衣出版)
・『ヘダ号の建造』(戸田村教育委員会)


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