鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その6」

2008-01-07 06:08:09 | Weblog
今回の取材旅行で初めて使用したデジカメは、Canonの「PowerShotSX100IS」という12月に購入したもの。それ以前に使っていたのはNIKONの「COOLPIX3100」というデジカメ。ところが取材の最中に路面にうっかり落としてしまい、レンズ部分が前に出てくるもののすぐに引っ込んでしまう状態に。要するに写せなくなったため新しいデジカメを物色していました。「COOLPIX」は形状が片手で持つのに便利で乾電池も使えて気に入っていたので、同じような形状で乾電池が使え、ズーム機能が10倍ほどあるものに狙いを絞り、見つけたのが「100IS」。その間に息子が自力で「COOLPIX」を直し、レンズ部分が動くようになったのですが、10倍ズームの魅力には勝てず、「COOLPIX」の方は妻に譲って新しいデジカメを旅行前に購入するにいたりました。これを今回初めて使用したのですが、いたって重宝し、私の取材旅行にはピッタリのものであることを実感。何がいいかというと、まず手軽な使いやすい大きさであること。ズボンのベルトに引っ掛けたカメラ用のポーチ(以前使用していたもの)にすっきりと入る。2点目は単三乾電池が使えること。コンビニはどこにもあるので乾電池はすぐに手に入れることが出来る(リュックに予備をいれておけばいい)。3点目はズームの魅力。光学10倍、デジタル4倍ということで、なんと最大40倍までズームが出来る。40倍で写すことなどまずありませんが、遠くのものを拡大して大きな液晶画面(2.5型)で見ることが出来る。つまり写さなくても望遠鏡の代わりに遠くのものを見ることが出来るということ。これは取材において重宝します。さらに今回気付いたのですが、たとえば小さい文字が詰まった案内板などを写してから、それを液晶画面で拡大してみることが出来るということ。倍率が40倍もあると、たとえ小さな読みにくい文字でも液晶画面に大きく映し出して読み取ることが出来るということです。これが何よりも重宝。案内板や碑文や墓碑銘(墓の側面に刻んである文字)など、基本的に取材ノートに書き留めるようにしていますが、急ぐときや文字数が多いときにはこのデジカメの機能がとてもありがたい。また今まで4倍ズームでしたが10倍ズームの威力はやはりすごい。建物の上部の装飾や模様、遠くの鳥の姿なども鮮明に写し取ることが出来るからです。 . . . 本文を読む

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その5」

2008-01-06 10:03:34 | Weblog
元禄時代頃の水戸城下の町の様子がわかるのは、『茨城県の歴史』(山川出版社)のP144に掲載されている地図。これを見ると千波湖(せんばこ)が現在よりぐんと広かったことがわかります。左下に町屋が並ぶ通りは水戸街道。備前堀につながる川の両側に並ぶ町屋が現在の本町。町屋は現在のR50やR118(あじさい通り)に沿っても並んでいますが、あとはほとんど武家屋敷。八幡宮・祇園寺・桂岸寺(けいがんじ)・常磐共有墓地があるところは、地図の上部真ん中辺り。寺のマーク(卍)が密集している地域になる。本丸には近世城郭に付きものの天守閣はなく、二の丸の中央南橋にその天守閣に代わる「三階櫓(やぐら)」がありましたが、「徳川御三家」の一つというわりには城壁の多くは石垣ではなくて土塁であり、中世城郭のままでした。水戸空襲の後、水戸市内に入った少年たちが「お城がなくなった!」と叫んだ「お城」とは、高台(二の丸)に建っていた「三階櫓」のことであったでしょう。11代にわたる徳川水戸藩主の中で有名なのは、なんと言っても「水戸黄門」こと2代藩主徳川光圀(みつくに)。その次に9代斉昭。その次は11代昭武(あきたけ)と言っていい。昭武は斉昭の十八男で「最後の将軍」慶喜(よしのぶ)の弟にあたる「最後の水戸藩主」。2代光圀(「黄門さま」)は、在世中から会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)、岡山藩の池田光政(みつまさ)とともに「名君」とたたえられ、修史事業(『大日本史』の編纂)などの文化政策、「下市(しもいち)」の住民のための上水道の開設、備荒貯蓄の整備、迷信邪神の粛清、過多の社寺の統廃合などを行いました。また僧侶の威勢を抑え家臣の出費を省(はぶ)くために常磐(ときわ)と酒門の二ヶ所に共同墓地を設置。墓地の広さについては「大小身なべて方一間(約1.8m)」以内で造るように規定し、父母を合葬する場合に限り「横一間、長九尺(約2.7m)まで許されました。また、墓碑名は「戒名(かいみょう)」を禁じるなど細かく規定しました。「戒名」については、宗派によってはその位によって「戒名料」が異なるなど、仏教の本質に違背(いはい)する問題点を持っていて、現在もそれは克服されていないということを考えると、光圀が家臣の無用な出費を抑えるために共有墓地を設けたり墓碑名の戒名を禁じたことは、それなりに「英断」だったのではないかと思います。 . . . 本文を読む

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その4」

2008-01-05 09:56:34 | Weblog
「二の丸」にあった水戸城「三階櫓(やぐら)」は、明治5年(1872年)の火災では残ったものの昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲(「水戸空襲」)により焼失。偕楽園内の「好文亭」もこの空襲により炎上。焼失したのは「三階櫓」や「好文亭」ばかりでなく、「下市(しもいち)」も「上市(うわいち)」もほとんど焼け野原になり、古い城下町の面影を残していた水戸市は灰燼に帰しました。罹災(りさい)戸数は10104戸。罹災人員は50605人。死亡者は300人以上。重傷者144人。軽傷者1149人。マリアナ基地を飛び立ったB29戦闘爆撃機167機のうち160機が房総半島から水戸市上空に侵入、8月2日の未明0:31~2:16にかけて、およそ1時間45分にわたって上空から照明弾や焼夷弾などを投下。投下された爆弾の量は1145トン。地上では「炸裂音と光が交錯し」、「地鳴り」が響き渡りました。そして「いつも見慣れていた水戸城は跡形もなく消え」、「下市」は「遠くまで見通すことが出来」るほどの「ただひたすら真っ白い焼け野原」となり、また「上市」も「遮蔽物(しゃへいぶつ)が無く一面が真っ平な白っぽい」「遥(はる)か彼方まで見通せる」「平面」となってしまいました(「水戸一高31会 私の終戦記念日 昭和20年8月15日の記憶」〈ネット〉より)。水戸市が空襲を受けた理由は、「水戸市 平和への取り組み」〈ネット〉によると、「常磐線の輸送上の基地であり、日立の工場のための労働力の供給源で下請けの中心」であったからでした。その「水戸空襲」の前月である7月17日の夜更け、日立と勝田の軍需工場(金上の「日兵産業」や大島の「日立製作所水戸工場」など)は猛烈な「艦砲射撃」(「カンポー」)を受けていました。また「水戸空襲」の前日、那珂川には、空襲を予告するビラが米軍により空から撒(ま)かれて浮かんでいたということです(前記の水戸一高31会のネットより)。当然のことながら、今、水戸市内を歩いてみてもその空襲の惨状をしのばせるものはほとんど残ってはいませんが、焼け残った戦前の建物があちこちに点在していることに、一日歩き回って気付かされました。 . . . 本文を読む

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その3」

2008-01-04 06:31:39 | Weblog
偕楽園の前に広がる千波湖(せんばこ)は、太古の昔から湖であったわけではない。いつかは私にはわからないけれども、案内板によると那珂川の運んだ土砂が、桜川の河口を塞(ふさ)いで出来た「名残沼(なごりぬま)」であるという。この千波湖は、江戸時代から明治・大正の中頃に至るまで、現在よりもずっと大きな広さを持ち、現在の本町1丁目の西側辺りまで湖であったらしい。前夜、水戸駅南口から本町2丁目にある「山城屋旅館」までを歩きましたが、おそらく桜川に架かる柳堤橋(りゅうていばし)から南に延びる「すずかけ通り」の西側まで湖であったと思われます。水戸駅の南側を東西に走る「駅南通り」の両側はかつては湖であったことになるのです。この千波湖が現在の規模に縮小されたのは、大正10年(1921年)から昭和7年(1932年)にかけての干拓事業。東西三十町(約3.3km)、南北七町(約0.8km)あったという千波湖は、この干拓事業によりほぼ現在の形に縮小されたわけですが、それでもまだまだ広い湖に感じられる。水辺には、カイツブリ・カルガモ・ヒドリカモ・オナガガモ・カワセミ・オオヨシキリ・コブハクチョウ・ユリカモメ・コサギ・ハクセキレイなどの水鳥が見られますが、これは幕末においてもそうであったに違いない。特に冬は渡り鳥の大群が飛来して、にぎわったことでしょう。湖面には網を持った漁師の乗る小さな舟や、月見客を乗せた屋形舟も見られたに違いない。天下の名園「偕楽園」も、この千波湖という借景がなければ魅力は半減していたのでは、と思われるほど。江戸初期、関東郡代代官頭の伊奈備前守忠次が造った「備前堀」は、干拓以前は千波湖から直接水を流していましたが、干拓以後は桜川より水を流すようになりました。現代的な石灯籠が並ぶ「備前堀」の辺りも、江戸時代から昭和初期にかけては、ずいぶん今とは違う景観が広がっていたことになります。 . . . 本文を読む

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その2」

2008-01-03 08:38:04 | Weblog
水戸城下は大きく、東の下市(しもいち)と西の上市(うわいち)に分けられます。下市は商人の居住区で上市は武士の居住区。その2つの区域の間にあるのが水戸城と千波湖(せんばこ)。水戸城は、那珂川と千波湖の間に伸びる洪積台地上の先端にあり、南に千波湖を見晴るかすことが出来る高台にある。特に二の丸の平屋建ての御殿に隣接した「三階櫓(やぐら)」に登れば、その三階の窓からは、眼下に千波湖の広がりや、その左手(東側)に「下市」と言われた商人の居住区の家並みが見えたはずです。幕末、その千波湖の右手(西側)の丘陵地帯には藩主斉昭によって「偕楽園」が造られ、初春にはそこに植えてあるおびただしい数の梅の木が可憐な紅白の花を咲かせました。JR常磐線は、この水戸城があった洪積台地の崖下を、千波湖を右手に見て(下りの場合)水戸駅構内に入ります。水戸駅の手前に「偕楽園臨時駅」というのがありますが、この駅は通常は普通も特急も通過してしまいますが、偕楽園に梅が咲く時には、首都圏からやってきた大勢の花見客を下ろすために臨時的に電車が停まります。そのすぐ右手に広がる湖が千波湖で、背後の丘陵にあるのが偕楽園。たしかにロケーションとしては抜群のところです。江戸からの水戸街道は、茨城郡長岡宿の方から左手に薬王院、常陸三の宮である吉田神社を見て、「備前堀」に架かる「銷魂(たまげ)橋」を渡って水戸宿に入る。そこからさらに岩城街道へと道は伸び、太平洋沿いに東北へと向かうのです。水戸城や「上市」の方へは、「銷魂橋」を渡って本丸下の崖下を左折。今の水戸駅の北口辺りよりゆるやかな坂道を進んでいくと、そこが「三の丸」の武家屋敷が集中する区域(上市)でした。商人(古着屋の藤田屋)の息子から武士になった藤田幽谷も、その長男である藤田東湖も、またあの大津浜に駆けつけた筆談役の会沢正志斎も、その「三の丸」周辺の武家屋敷が集中する区域に住んでいたのです。この会沢正志斎と藤田東湖は、後期水戸学を代表する学者であり政治家であり、幕末、全国諸藩にその名を知られた人物でした。 . . . 本文を読む

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その1」

2008-01-02 06:34:51 | Weblog
「山城屋旅館」のご主人(60後半?)が出てこられて2階の部屋に案内されました。案内される前に、玄関を入った脇のところに置いてあった「水戸の宿泊・観光ガイドマップ」と「ふれあい水戸 中心商店街マップ」、それに「ハミングロード513」の3枚を手にしました。部屋は8畳で、ふとんがちゃんと用意されている。鴨居のところには6、7枚の絵が掛けられていて、窓際には大型液晶画面のテレビが置いてあります。入って右手は襖が4枚。そこは押し入れだと思いました(そうでないことは翌日の夜に気付くことになる)。トイレ・洗面場・お風呂は共同。部屋の鍵はかかりませんが、広い畳部屋で、お風呂も1人で入れる時間を配慮して頂き、ご主人始め皆気さくな方たちで気持ちよく過ごすことが出来ました。座卓を部屋の真ん中に出して、さっそく手に入れた「水戸の宿泊・観光ガイドマップ」を広げて、2日目の見学コース(歩くコース)を設定しました。福井で泊まった足羽山の麓にあるビジネス旅館(「山城屋旅館」もこの「ビジネス旅館」の範疇に入る)「河甚」でも、そこで貰った福井の観光マップがとても役立ったのですが、この「水戸の宿泊・観光ガイドマップ」もとてもわかり易く、翌日の探索の際には、常にそれを見ながら歩き回ったほど。「ふれあい水戸 中心商店街マップ」の方は、買物をする際に便利なマップですが、私は買物をするわけではないので利用価値は少ない。興味を引かれたのは「ハミングロード513 お買物マップ」。「本町一丁目二丁目商店街」とあって、「水戸市商業活性化補助事業」と書いてある。そこには「ハミングロード」にある商店1軒1軒が紹介されています。「本町組合会館」では毎月20日、「童謡を楽しむ会」が開催されている。眺めたり撫でたりできる彫刻が5ヶ所に置かれている。12月には小学生・中学生・高校生の演奏と「童謡の会」の合唱があるクリスマス・コンサートが開催される。備前堀では8月に「とうろう流し」が行われる。……といったことが書いてあります。商店街活性化に向けてのさまざまな取り組みが行われているようで、これは是非歩いて見なくてはと思いました。テレビでは五木ひろしが出て、福井のことをやっていました。福井の全国一にはどのようなものがあるか。象が初めて日本に上陸したところは福井の小浜であったということは初めて知りました。翌日に備え9:00には就寝です。 . . . 本文を読む