鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その1」

2008-01-09 06:29:45 | Weblog
大津浜事件についてはすでに触れましたが、実はそれ以前にも長い海岸線を持つ水戸藩の沖合いにはしばしば異国船の姿が見られるようになっていました。たとえば文化4年(1807年)6月に異国船が初めて鹿島灘に姿を見せましたし、文化12年(1815年)2月にも水戸藩の支藩である守山藩の松川領(東茨城郡大洗町)の近海に異国船が現れました。また文政6年(1823年)、すなわち大津浜事件の前年の6月9日には、那珂湊の沖合いに一艘の異国船が姿を現し、翌日も再び姿を見せ、沖合いに5艘の異国船が浮かんでいるのを漁船が確認しています。急報を受けた水戸藩は、郡奉行吉村伝左衛門を始め筆談役として青山延于(えんう・拙斎)や杉山忠亮(復堂)らの学者を軍装で派遣、数十名の藩士を那珂湊に駐在させました。さらに文政7年(1824年)、すなわち大津浜事件が起こる年の4月や5月には、再び那珂湊の沖合いに異国船が出没し、ついに5月28日、異国船の乗組員が大津浜に2隻のボートで上陸するという事件が勃発したのです(「大津浜事件」)。すでに触れたように、この事件は蝦夷地や琉球諸島などを除いて、当時の鎖国日本に多数(12名)の異国人が上陸した最初の出来事でした。文化文政期からの異国船の接近に、水戸藩は手をこまねいていたわけではなく、海岸線に海防詰所を設けたり番士を置いたりするなど、海岸防備の強化を図っていました。さらに危機感を持った学者たちは西洋に関する情報の摂取を行うとともに、海防強化を主眼とした藩政改革を訴えました。その代表的な学者は、たとえば青山延于・藤田幽谷・豊田天功、そして会沢正志斎でした。大津浜で異国人と接触した会沢が、はじめ彼らをロシア人と思ってロシア文字を示し、彼らがABCと書いてくると、これはオランダ語のアベセであると判断したことからもわかるように、彼ら学者たちは西洋情勢に関する知識や関心を、その度合いの差はあれ、なにがしか所有していたことになる。たとえば会沢は、享和元年(1801年)、20歳の時に「千島異聞」を著していますが、その出典を見てみると、前野良沢・桂川甫周といった蘭学者の翻訳書、工藤平助・林子平といった警世家の著作、また漢籍(清時代の中国の本)などを幅広く読んでいることがわかります。外圧に対する危機意識が、この水戸藩においても19世紀初頭から高まりつつあることがわかるのです。 . . . 本文を読む