鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その2」

2008-01-10 06:04:27 | Weblog
大津浜事件が起きた時の藩主(8代)斉脩(なりのぶ)は病弱で子どもがなく、文政12年(1829年)の5月頃から、次期藩主として斉脩の異母弟敬三郎(斉昭)を擁立を図る一派と、将軍家斉(いえなり)の23男である清水恒之丞(つねのじょう)の擁立を図る一派の対立が次第に活発になっていきました。しかし青山延干・会沢正志斎・藤田東湖・戸田忠敞・金子孫二郎らの必死の動きにより、その年の10月、敬三郎(斉昭)が新藩主となることに決定しました。擁立の事情もあって、新藩主斉昭の周囲にはおよそ60名を越える改革推進派(藤田幽谷の門下生を中心とする)が集まり、その大部分は中・下士層であったために、藩主継嗣(けいし)争いに負けた門閥派との対立が、以後激しくなっていくことになりました(幕末水戸藩の激しい「党争」の発端)。門閥派から見て、改革派は成り上がり者が多く、成り上がり者が偉そうに「天狗」になっているということで、改革派は「天狗党」とも呼ばれるようになりましたが、一方改革派の方も「天狗」であることを積極的に自認し、「天狗」であることに矜持(きょうじ)をもって門閥派と対立していきました。改革派の中心に立ったのは藤田幽谷の一子東湖。この藤田東湖を中心とする改革派と新藩主斉昭の密着により、その後の水戸藩の藩政改革が積極的に進められていくことになったのです。天保4年(1833年)の3月、新藩主斉昭の最初の就藩(しゅうはん・水戸藩は参勤交代がなく「定府制」であったため、江戸から水戸に入ることを「就藩」といった)が実現。その前後より進められた水戸藩の天保年間の藩政改革を、「水戸藩の天保改革」という言い方をするようです。この改革では①財政再建②海防と軍備の強化③産業振興④農村振興⑤社寺改革などが推進され、特に諸改革の基礎作業とも言える「領内総検地」は天保期の「藩政改革の出発点」となるものでした。しかし強引な社寺改革が足を引っ張ることになり、天保15年(1844年)に斉昭は幕府から謹慎を命ぜられて失脚に追い込まれます。これにより改革派の中心人物であった藤田東湖や戸田忠敞らも蟄居を命ぜられ、一時改革派はその力を失います。しかし嘉永年間に入ると内憂外患による危機意識の高まりとともに斉昭は復権。斉昭は「攘夷論者の巨頭」として仰がれ、ペリー来航後の幕末の政治状況の中で水戸藩は大きな力を持つことになっていくのです。 . . . 本文を読む