鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その3」

2008-01-11 05:48:47 | Weblog
「ひたちなか市」は「那珂湊市」と「勝田市」が平成6年(1994年)に合併して出来た市。「那珂湊市」は、江戸時代は「湊村」でした。北から太平洋岸を通って江戸方面へ向かう回船は「東廻り回船」といって、東北地方や蝦夷地の物産は回船により江戸方面へ運ばれました。江戸へ入るルートは主に三つ。①鹿島灘の沖→浦賀→江戸②銚子→利根川→江戸川→江戸③那珂湊→那珂川→涸沼(ひぬま)川→一部陸送→北浦→利根川→江戸川→江戸。那珂湊は、那珂川と利根川水運を利用して江戸へ諸物産を運ぶ場合の回船(「親船」「北前船」とも言う)が碇泊する河口港(那珂川の河口を利用した港)として、吉田松陰が「東北遊の記」で言うように、水戸藩領内において最も繁栄した土地でした。この那珂湊に碇泊した回船は、蝦夷地の江差(えさし)・松前・箱館、東北の津軽・庄内・酒田・出羽・南部など、北陸の越後・佐渡・越中・加賀・能登など、さらに大坂・兵庫・江戸などからやってきた回船。積載してきた物産は、塩鮭・にしん・かずの子・〆粕(しめかす)・昆布・仙台米・相馬米・岩城米・大豆・こんにゃく・鰹節・塩・薪(まき)・炭・製造たばこ・江戸方面からの日常生活必需品でした。回船はもちろん川を遡行(そこう)はせず、高瀬舟などの小型帆船が那珂川や利根川水運を行き来しました。那珂湊の商人たちは回船業や海産物業などを営むとともに、酒・味噌・醤油の醸造や刻み昆布・刻みたばこなどの製造にも携(たずさ)わり、「西の大坂、東の那珂湊」と言われるほどの賑わいを見せ、いわゆる「豪商」が輩出しました。ここは水戸城下の外港(海に面した港)であって海防面での重要地でもあったため、幕末、郷校(「敬業館」・1835年→後「文武館」)や反射炉(1855年)が設けられることになったのです。しかし元治元年(1864年)の「天狗党」と「諸生派」との争乱の最大の激戦地となり、反射炉や文武館を始めお寺や回船問屋など多数の歴史のある建物が兵火にかかり焼失してしまいました。さらに明治30年(1897年)に常磐線が開通すると、水上交通に代わって陸上交通が主流となり、さしもの繁栄を誇ったこの那珂湊も商業の町としては次第に衰退していくことになりました。 . . . 本文を読む