鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その2

2008-01-29 06:26:38 | Weblog
ことは慶応4年(1868年)正月3日にさかのぼる。この日の朝、「討薩の表」を所持した幕府大目付滝川具挙(ともあき)率いる幕府勢は、鳥羽街道を北上して京に入ろうとして薩摩側と交渉。交渉はいっこうにラチが開かず、滝川はついに強行前進を開始。この瞬間、薩摩兵の大砲・小銃がいっせいに火を吹き、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。しかしこの戦争は幕府軍の完全な敗北に終わり、6日の夜、大坂城を抜け出した慶喜は翌日未明、幕府軍艦開陽丸で江戸に向かうことに。同行するのは元京都守護職松平容保(かたもり・会津藩主)・元京都所司代松平定敬(さだあき・桑名藩主)らごくわずかでした。10日、新政府は慶喜・容保・定敬らの官位を剥奪するなど「朝敵」処分を行う一方で、5日に橋本実梁(さねやな)を東海道鎮撫総督に任命。2月9日には有栖川宮熾仁(たるひと)親王を東征大総督に任命。江戸をはじめとした東国を鎮圧するための「東征軍」は、薩摩・長州両藩兵を中心に鳥羽・伏見戦争後帰順した諸藩兵によって構成されていました。東海道を東に進んだ東海道先鋒軍に対し、小田原藩の使節は藤枝宿において「勤王に二念なし」と返答して明確に勤王の立場を表明(2月27日)。それにより先鋒軍は難なく箱根の関所を越え、先鋒総督橋本実梁は3月26日に小田原宿に到着。翌日江戸へ向かい、また東征大総督の有栖川宮も4月11日に小田原宿に到着、翌日江戸へ向かいました。その4月11日、江戸城は東征軍により「無血開城」されていました。さて請西(じょうざい)藩の若き藩主林忠崇(ただたか)のことになる。上総請西藩は現在の千葉県木更津市にあった一万石の小さな譜代藩。上京論(新政府側につく)と上京反対論(幕府方につく)に藩論は分裂、宙ぶらりんになっている最中に、江戸城「無血開城」後も徹底抗戦を叫ぶ幕臣福田八郎右衛門を隊長とする3000人が江戸を脱走して木更津に出現。これにより藩主忠崇も請西藩も徹底抗戦の立場を鮮明にし、やがてやってきた「遊撃隊」に同調して徳川家再興のために立ち上がることを決意。この時忠崇は数えで21歳。徳川最後の将軍に迷惑が及ばぬよう自ら脱藩し、「脱藩大名」として戊辰戦争を戦うことになりました。忠崇が藩兵およそ70人とともに「遊撃隊」に加わり、真武根(まふね)陣屋を出立したのは閏4月3日の明け六つ(午前6時)過ぎのことでした。 . . . 本文を読む