鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その3」

2008-01-04 06:31:39 | Weblog
偕楽園の前に広がる千波湖(せんばこ)は、太古の昔から湖であったわけではない。いつかは私にはわからないけれども、案内板によると那珂川の運んだ土砂が、桜川の河口を塞(ふさ)いで出来た「名残沼(なごりぬま)」であるという。この千波湖は、江戸時代から明治・大正の中頃に至るまで、現在よりもずっと大きな広さを持ち、現在の本町1丁目の西側辺りまで湖であったらしい。前夜、水戸駅南口から本町2丁目にある「山城屋旅館」までを歩きましたが、おそらく桜川に架かる柳堤橋(りゅうていばし)から南に延びる「すずかけ通り」の西側まで湖であったと思われます。水戸駅の南側を東西に走る「駅南通り」の両側はかつては湖であったことになるのです。この千波湖が現在の規模に縮小されたのは、大正10年(1921年)から昭和7年(1932年)にかけての干拓事業。東西三十町(約3.3km)、南北七町(約0.8km)あったという千波湖は、この干拓事業によりほぼ現在の形に縮小されたわけですが、それでもまだまだ広い湖に感じられる。水辺には、カイツブリ・カルガモ・ヒドリカモ・オナガガモ・カワセミ・オオヨシキリ・コブハクチョウ・ユリカモメ・コサギ・ハクセキレイなどの水鳥が見られますが、これは幕末においてもそうであったに違いない。特に冬は渡り鳥の大群が飛来して、にぎわったことでしょう。湖面には網を持った漁師の乗る小さな舟や、月見客を乗せた屋形舟も見られたに違いない。天下の名園「偕楽園」も、この千波湖という借景がなければ魅力は半減していたのでは、と思われるほど。江戸初期、関東郡代代官頭の伊奈備前守忠次が造った「備前堀」は、干拓以前は千波湖から直接水を流していましたが、干拓以後は桜川より水を流すようになりました。現代的な石灯籠が並ぶ「備前堀」の辺りも、江戸時代から昭和初期にかけては、ずいぶん今とは違う景観が広がっていたことになります。 . . . 本文を読む