鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「風船爆弾」について その3

2008-01-21 06:07:51 | Weblog
川本三郎さんの『銀幕の東京 映画でよみがえる昭和』(中公文庫)を読んでいたら、浅草国際劇場において「風船爆弾」が作られていたという文章が出てきました。浅草国際劇場は、松竹が東宝系の日劇に対抗して昭和12年(1937年)に完成させた3600人を収容できる大劇場で、松竹少女歌劇団の本拠地でした。昭和19年(1944年)2月、戦局が悪化していく状況の中で戦時非常措置法により興行中止となったあと、その建物内において「風船爆弾」が作られていたというのです。この浅草国際劇場は昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失したものの建物自体は残ったため、戦後に改築して興行を再開。松竹少女歌劇団は松竹歌劇団と改称。そのメンバーには淡路恵子・草笛光子・野添ひとみ・倍賞千恵子・倍賞美津子らがいたとのこと。おそらく爆弾は未装着状態であっただろうから、正確にいえば作られていたのは「気球」であったでしょう。『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』によると、気球が作られていたのは浅草国際劇場ばかりでなく東京各地、また全国各地の劇場や学校の体育館など屋根のある大きな空間を持つ建物でした。そしてそこで実際に「気球」を作成していたのは、多くが勤労動員の女学生たちだったのです。 . . . 本文を読む