鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その2」

2008-01-03 08:38:04 | Weblog
水戸城下は大きく、東の下市(しもいち)と西の上市(うわいち)に分けられます。下市は商人の居住区で上市は武士の居住区。その2つの区域の間にあるのが水戸城と千波湖(せんばこ)。水戸城は、那珂川と千波湖の間に伸びる洪積台地上の先端にあり、南に千波湖を見晴るかすことが出来る高台にある。特に二の丸の平屋建ての御殿に隣接した「三階櫓(やぐら)」に登れば、その三階の窓からは、眼下に千波湖の広がりや、その左手(東側)に「下市」と言われた商人の居住区の家並みが見えたはずです。幕末、その千波湖の右手(西側)の丘陵地帯には藩主斉昭によって「偕楽園」が造られ、初春にはそこに植えてあるおびただしい数の梅の木が可憐な紅白の花を咲かせました。JR常磐線は、この水戸城があった洪積台地の崖下を、千波湖を右手に見て(下りの場合)水戸駅構内に入ります。水戸駅の手前に「偕楽園臨時駅」というのがありますが、この駅は通常は普通も特急も通過してしまいますが、偕楽園に梅が咲く時には、首都圏からやってきた大勢の花見客を下ろすために臨時的に電車が停まります。そのすぐ右手に広がる湖が千波湖で、背後の丘陵にあるのが偕楽園。たしかにロケーションとしては抜群のところです。江戸からの水戸街道は、茨城郡長岡宿の方から左手に薬王院、常陸三の宮である吉田神社を見て、「備前堀」に架かる「銷魂(たまげ)橋」を渡って水戸宿に入る。そこからさらに岩城街道へと道は伸び、太平洋沿いに東北へと向かうのです。水戸城や「上市」の方へは、「銷魂橋」を渡って本丸下の崖下を左折。今の水戸駅の北口辺りよりゆるやかな坂道を進んでいくと、そこが「三の丸」の武家屋敷が集中する区域(上市)でした。商人(古着屋の藤田屋)の息子から武士になった藤田幽谷も、その長男である藤田東湖も、またあの大津浜に駆けつけた筆談役の会沢正志斎も、その「三の丸」周辺の武家屋敷が集中する区域に住んでいたのです。この会沢正志斎と藤田東湖は、後期水戸学を代表する学者であり政治家であり、幕末、全国諸藩にその名を知られた人物でした。 . . . 本文を読む