鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その5」

2008-01-06 10:03:34 | Weblog
元禄時代頃の水戸城下の町の様子がわかるのは、『茨城県の歴史』(山川出版社)のP144に掲載されている地図。これを見ると千波湖(せんばこ)が現在よりぐんと広かったことがわかります。左下に町屋が並ぶ通りは水戸街道。備前堀につながる川の両側に並ぶ町屋が現在の本町。町屋は現在のR50やR118(あじさい通り)に沿っても並んでいますが、あとはほとんど武家屋敷。八幡宮・祇園寺・桂岸寺(けいがんじ)・常磐共有墓地があるところは、地図の上部真ん中辺り。寺のマーク(卍)が密集している地域になる。本丸には近世城郭に付きものの天守閣はなく、二の丸の中央南橋にその天守閣に代わる「三階櫓(やぐら)」がありましたが、「徳川御三家」の一つというわりには城壁の多くは石垣ではなくて土塁であり、中世城郭のままでした。水戸空襲の後、水戸市内に入った少年たちが「お城がなくなった!」と叫んだ「お城」とは、高台(二の丸)に建っていた「三階櫓」のことであったでしょう。11代にわたる徳川水戸藩主の中で有名なのは、なんと言っても「水戸黄門」こと2代藩主徳川光圀(みつくに)。その次に9代斉昭。その次は11代昭武(あきたけ)と言っていい。昭武は斉昭の十八男で「最後の将軍」慶喜(よしのぶ)の弟にあたる「最後の水戸藩主」。2代光圀(「黄門さま」)は、在世中から会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)、岡山藩の池田光政(みつまさ)とともに「名君」とたたえられ、修史事業(『大日本史』の編纂)などの文化政策、「下市(しもいち)」の住民のための上水道の開設、備荒貯蓄の整備、迷信邪神の粛清、過多の社寺の統廃合などを行いました。また僧侶の威勢を抑え家臣の出費を省(はぶ)くために常磐(ときわ)と酒門の二ヶ所に共同墓地を設置。墓地の広さについては「大小身なべて方一間(約1.8m)」以内で造るように規定し、父母を合葬する場合に限り「横一間、長九尺(約2.7m)まで許されました。また、墓碑名は「戒名(かいみょう)」を禁じるなど細かく規定しました。「戒名」については、宗派によってはその位によって「戒名料」が異なるなど、仏教の本質に違背(いはい)する問題点を持っていて、現在もそれは克服されていないということを考えると、光圀が家臣の無用な出費を抑えるために共有墓地を設けたり墓碑名の戒名を禁じたことは、それなりに「英断」だったのではないかと思います。 . . . 本文を読む