鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その3

2008-01-30 06:01:14 | Weblog
遊撃隊の中核をなしたのは幕府講武所で刀槍柔術を教授した武芸の達人たち。鳥羽伏見戦争で多数の死者が出たことや慶喜の護衛のために水戸へ赴く者もいて、新政府に対決するために林忠崇(ただたか)らと挙兵した隊員は35名ほど。一軍の隊長が人見勝太郎で数え年26歳。二軍の隊長が伊庭(いば)八郎で同じく26歳。この二人と会見した忠崇は「伊庭は義勇の人、人見は智勇の人。二人とも立派な人物たと思ったから、これにおつかぶさったのだ」と後に語っています。三人の作戦は、「すみやかに房総の諸侯を連合してその兵力で伊豆・相模に渡って小田原藩と韮山代官所に協力を求め、大いに兵威を張って従うものは力をあわせ拒むものはこれを討ち、紀州和歌山・尾張名古屋・近江彦根の三藩に対し遺恨を晴らす」というものでした。なぜこの三藩に遺恨を晴らすかと言えば、「徳川御三家」にも関わらず紀州と尾張はいちはやく新政府側につき、また家康以来の譜代筆頭として重きをなした彦根(井伊家)も新政府側について「東征軍」に加わっていたからでした。これは武士(もののふ)としての「忠義」を重んずる人々にとっては許し難いことでした。忠崇はこうも言っています。「慶喜公は、財産を捨て、政権を捨てゝ、総理を辞した。それをなほ朝敵として討伐するのはあたらん。それがわからないから、自分はやつた」。単純明快といえばたしかに単純明快。しかし、彦根にも紀州にも尾張にも、新政府に組した(苦渋の決断を下した)それなりの論理なり理由付けがあったに違いない。出撃に先立って出された軍令状には、「一、徳川御家再興基本、心得違いこれなく五常(仁義礼智信)の道堅く相守り、仮りにも暴行いたすまじき事」「一、陣中禁酒、喧嘩口論堅く停止(ちょうじ)事」などとありました。出陣後、近隣諸藩からの兵力を加えた一行は、閏4月10日に和船に乗って12日に真鶴半島に上陸。忠崇は数名の供を連れて小田原城に入って小田原藩大久保家に協力を求めたものの、「まだ決起すぺき時期は来ていない。しかし武器・金穀はお贈りしよう」と言われ、小田原を去ることに。続いて伊豆韮山代官所(江川家)に赴いて協力を要請するもののここでも拒絶される(当主は朝廷に召し出されて今は上京中)。次策として甲府城を乗っ取ろうとするもののこれもうまく行かず断念。沼津に滞在中に、江戸では5月15日に上野で彰義隊戦争が勃発します。 . . . 本文を読む