鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その6」

2008-01-07 06:08:09 | Weblog
 入って正面は「諸役会所」。正面に「尊攘」の二文字。案内によると、正庁(現在残っている建物)の右側に「文館」、その西に「孔子廟」。正庁の左側に「武館」、その西に「医学館」。正庁の西に「鹿島神社」があり、その西に「弘道館記」を納めた「八卦(はっけ)堂」。正庁や文館、武館の後方に調練場や馬場があった、ということで、藩校としては当時の日本において最大規模のものでした。

 武士が学ぶべき芸は「六芸」。礼・楽・射・御(馬術)・書・数。それを教授し学ぶところが「藩校」でした。

 正庁は24畳敷。ここが藩主が出座して文武の試験を行うところ。「武」の試験は前庭で行われる。庭の奥の白漆喰塗の塀の向こうにはシイの巨木。庭の右側にサルスベリの木とその背後に梅の木。左手にはサンシュユの木。

 便所や湯殿もある。湯殿は板敷きで、敷板が両側から中央に向かって傾いている。

 「至善堂」は藩主の座所(居間・休息の間)。ここで「最後の将軍」であった慶喜が、新政府(天皇)に対して恭順し謹慎生活を過ごしました。隣の部屋に慶喜が謹慎している時に使用したと言われる葵のご紋がついた立派な「長持(ながもち)」が展示されていました。

 9代藩主斉昭は、「愛民謝農」をモットーにしていたのだという。「農人形」というものがあり、斉昭は食事のたびに最初の一箸をこの「農人形」に供えてから食事を摂ることにしていたという。

 この斉昭は型破りの藩主であったらしい。

 山川菊栄は『覚書幕末の水戸藩』で、次のように書いているという。

 「家来をつれて歩いても、尾行をまくのもうまければ、しばらく待てといって道ばたに待たせておいて、自分ひとりで目ざす家へはいってみることもよくあった。そんなとき、玄関のそとで大きな声で「ご免」と一と声かけたかと思うと、取次ぎもまたず、さっさと上がってしまう。奥座敷へはいったかと思えば台所まで通りぬけて、ナベのフタ、お櫃(ひつ)のフタまでとって中をのぞく。ある家ではどす黒いほど麦の多い御飯だったといって倹約と粗食をほめられたが、ある家では鍋の中にグツグツ煮えている雑炊に首をかしげた。「これは何だ?」ときかれて、主婦が冷めしを温かくして食べる方法だと説明すると、なるほどと感心した様子だった。「冷めし殿様」でも殿様だけに、まだおじやはご存じないとみえると一つ話になった。」

 吉田松陰自筆の漢文もありました。水戸に遊学した際、滞在していた永井政介の子芳之介と意気投合し、別れにあたって芳之介に贈ったもの。一気呵成に書いたものでしょうが、裂帛(れっぱく)の気迫がその密集した漢字の書体から伝わってきます。熱情の人だったのでしょう。

 15:35に「弘道館」を出る。空襲に遭いながらよく焼け残ったものだと思う。

 戦後間もなく、三の丸小学校の生徒たちは、テントや焼け残った「弘道館」の中で授業を受けたという。畳敷きの薄暗い廊下のような場所で授業を受け、庭や広場でDDTの白い粉の噴霧を受け、また予防接種を受けたのだという。

 いつの時期のものかはわかりませんが、水戸城の遠景が描かれた絵(茨城大学教育学部附属小学校所蔵)は、『藤田東湖』鈴木暎一(吉川弘文館)P170~171に載っています。石垣はなく、本丸や二の丸には巨木が繁っています。左手の崖際にある3階建の建物が「三階櫓」(天守閣の代わり)。左手奥の三の丸の武家屋敷地に、幕末「弘道館」が作られることになります。崖の下は柵町。右手にある大きな門はおそらく「柵町門」。この下にあった門が「柵町坂下門」。お城がある台地の崖下に広がっているのが千波湖(せんばこ)になる。

 弘道館公園(「文館」があったところ)を抜け、弘道館の裏手へ左折すると「鹿島神社」、その右手に「八卦堂」がありました。これも空襲で焼失し再建されたもの。八角のお堂で各面の上欄に八卦(易)の算木(さんぎ)が取り付けられているところから「八卦堂」と言うらしい。

 「要石(かなめいし)歌碑」や「種梅記碑」もありました(いずれも烈公〔斉昭〕の自選)。

 左に県立図書館、右に県の三の丸庁舎がありますが、この辺り一帯がかつては弘道館の調練場であり馬場であったのでしょう。左手奥には「配水塔」が望見される。

 三の丸の武家屋敷を取っ払って設けた「弘道館」の敷地は、現在のおよそ5倍以上の広さ(約5万4000坪)。明治元年(1868年)の藩内抗争(例の「党争」)と空襲(「水戸空襲」)によりその建物の大半は焼失。現在、その当時の「弘道館」の建物で残っているのは「正庁」と、「大手門」に対していた「正門」の2つのみ。「文館」があったところは「弘道館公園」、「武館」があったところは「三の丸小学校」になっています。

 「三の丸庁舎」の全景をカメラにおさめた後、県立図書館に入館(16:10)。閉館が17:00というので、急いで2階の「郷土資料室」に向かいました。

 郷土史関係の本をチェック。水戸学関係はもちろん、岡倉天心・横山大観・長塚節(たかし)・野口雨情・山村暮鳥関係の本も多い。茨城県関係の文学作品もかなり集められています。

 特筆されるのは「貸出用郷土資料コーナー」があって、かなりの古書や専門書も借り出しが出来るようになっていること。各町史や市史、県史料などです。なかなか他の図書館には見られないことです。

 視聴覚ホールの座席は閲覧席になっていて、ステージ正面を囲んで会議室のようになっているスペースで利用者が本を読んでいました。ここでは「イブニングシアター」も催されているらしく、ちなみに1月9日には、ジャック・レモン、アル・パチーノの『摩天楼を夢みて』が上映されるとのこと。これも面白い企画です。

 16:49、県立図書館を出る。外はすっかり暗くなっています。図書館を出た人たちのあとについて駅の方へ。

 三の丸小学校前を右折してゆるい坂を下りていき、駅前の通りに出る。左手に水戸駅。陸橋を渡って「川又書店」に入り、郷土本をチェック。図書館でも注意を引きましたが、筑波書林や崙書房出版の「ふるさと文庫」が素晴らしい。また岩波・みすず・藤原各書店の重厚な本がたくさん置いてあるのにも感動しました。

 駅ビルでおみやげを購入し、水戸駅南口へ。

 桜川に架かる「駅南大橋」を渡ってすぐに右折、桜川沿いの堤防の上の道を歩きました。この堤防の右側(あるいは両側)は、かつて千波湖が広がり舟が行き交っていたことでしょう。桜川の上空には真冬の満月が晧晧(こうこう)と輝いています。あの偕楽園の「好文亭」の三階「楽寿楼」からは、この月はどのように見えるのだろう。晩年の斉昭は、何を思いながらこのような月景色を眺めたことだろう。

 そんなことを思いながら、「いしかき橋」を右折。東台1丁目の交差点で通りを渡って、次の通りを右折すると、そこが「ハミングロード513」(本町商店街)でした。


 続く


○参考文献
・『近代天皇像の形成』安丸良夫(岩波現代文庫)
  ※山川菊栄の斉昭に関する文章は、この本より引用しました。
・『茨城県の歴史』(山川出版社)
・『藤田東湖』(吉川弘文館)

 ネット
・「水戸一高31会 私の終戦記念日 昭和20年8月15日の記憶」横須賀俊夫さんの手記より


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