鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その4」

2008-01-05 09:56:34 | Weblog
「二の丸」にあった水戸城「三階櫓(やぐら)」は、明治5年(1872年)の火災では残ったものの昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲(「水戸空襲」)により焼失。偕楽園内の「好文亭」もこの空襲により炎上。焼失したのは「三階櫓」や「好文亭」ばかりでなく、「下市(しもいち)」も「上市(うわいち)」もほとんど焼け野原になり、古い城下町の面影を残していた水戸市は灰燼に帰しました。罹災(りさい)戸数は10104戸。罹災人員は50605人。死亡者は300人以上。重傷者144人。軽傷者1149人。マリアナ基地を飛び立ったB29戦闘爆撃機167機のうち160機が房総半島から水戸市上空に侵入、8月2日の未明0:31~2:16にかけて、およそ1時間45分にわたって上空から照明弾や焼夷弾などを投下。投下された爆弾の量は1145トン。地上では「炸裂音と光が交錯し」、「地鳴り」が響き渡りました。そして「いつも見慣れていた水戸城は跡形もなく消え」、「下市」は「遠くまで見通すことが出来」るほどの「ただひたすら真っ白い焼け野原」となり、また「上市」も「遮蔽物(しゃへいぶつ)が無く一面が真っ平な白っぽい」「遥(はる)か彼方まで見通せる」「平面」となってしまいました(「水戸一高31会 私の終戦記念日 昭和20年8月15日の記憶」〈ネット〉より)。水戸市が空襲を受けた理由は、「水戸市 平和への取り組み」〈ネット〉によると、「常磐線の輸送上の基地であり、日立の工場のための労働力の供給源で下請けの中心」であったからでした。その「水戸空襲」の前月である7月17日の夜更け、日立と勝田の軍需工場(金上の「日兵産業」や大島の「日立製作所水戸工場」など)は猛烈な「艦砲射撃」(「カンポー」)を受けていました。また「水戸空襲」の前日、那珂川には、空襲を予告するビラが米軍により空から撒(ま)かれて浮かんでいたということです(前記の水戸一高31会のネットより)。当然のことながら、今、水戸市内を歩いてみてもその空襲の惨状をしのばせるものはほとんど残ってはいませんが、焼け残った戦前の建物があちこちに点在していることに、一日歩き回って気付かされました。 . . . 本文を読む