鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その最終回

2013-10-21 05:01:48 | Weblog
「道」には、進むべき道(方向性)というものもある。「これからの日本や世界の進むべき道」といった使い方。私は、今回の取材旅行で、茨城県北部から青森県種差海岸までの東北地方太平洋岸の被災地(といってもその海岸線から見ればごく一部に過ぎませんが)の取材旅行をひとまず終えましたが、その地域それぞれの被災の状況は、その土地の形状、震源地からの方角、海流の向きなど、さまざまな要因によってまちまちであるということをまず知りました。たとえば仙台平野の海岸部である荒浜地区(若林区荒浜)と、三陸リアス式海岸の田老地区(宮古市田老)を比較しても、それは明らかでした。高い津波が押し寄せても、すぐに逃げることができる山が近くにあるかないかでも、犠牲者の数には大きな違いがあることを知りました。また津波で亡くなった人たちの多くが高齢者であることは、どの地域においても共通することでした(これはつい先日の伊豆大島元町における土石流被害においても同様でした)。地震や津波が発生した時間帯(午後2時46分からそれ以後の数時間)によることもありますが、「少子高齢化地域」を巨大津波は直撃したのです。あれから2年5ヶ月を経過して、復旧なり復興なりがまがりなりに進んでいるその度合いとしては、私が見た限りでは、岩手県が比較的速く(道路や鉄道、集団移転先の造営など)、その次が宮城県で、福島県が最も遅れていると思われました。福島県沿岸部はやはり東京電力福島第1原発事故の放射能汚染が、瓦礫処理一つをとってみても復興の足を大きく引っ張っています。福島第1原発の事故は、当初から東日本大地震による災害対策の大きな障害(いや、東日本大震災における最も深刻な災害事故であった)となっているものであり、もちろん、私もその放射能汚染警戒地域には立ち入ることはできませんでした。押し寄せてくる津波の高さや形状が、場所によって千差万別であるように、被災地の復興のあり方も千差万別であると思われますが、全体の方向性としては共通したものがあるべきです。それはやはり将来的な脱原発の方向性であり、少子高齢化社会であっても持続可能な地域社会の構築です。これからの東北地方の復興のあり方は、今後の日本や世界のあり方(あるべき道=方向性)をまるごと問うものである、と私には思われました。 . . . 本文を読む