鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その14

2013-10-20 06:19:24 | Weblog
古来、道を描いた画家は多い。風景画の中には多く道がある。広重の『東海道五十三次』がまさにそうだし、五雲亭貞秀や川瀬巴水の浮世絵にも多く道が描かれる。渡辺崋山の風景画にも多く道が描かれますが、特に道が描かれたものとして印象的なのは、『四州真景図』の「二巻」中の「釜原」という作品。この画中の二人の人物(親子)が歩く道は「木下(きおろし)街道」であり、馬が草を食む周囲の草原は、現在の千葉県鎌ヶ谷市近辺の野原であり、当時、関東郡代の管轄下にあった「中野牧(なかのまき)」(牧=放牧場)。崋山は市川から鎌ヶ谷へと向かう途中で、この絵(下地であるスケッチ)を描いています。この絵ののびやかさは、種差海岸の風景に通じるものがある。さらに東山魁夷が『道』という作品を描いたこの種差海岸一帯の芝原は、かつては馬の放牧場であったところであり、昭和30年代頃までの写真を見てみると、この芝原に馬がいて、観光客が馬と戯れている姿が写されています。東山魁夷が種差海岸をスケッチした絵(『道』のもととなる絵)にも、放牧場の中を走る道と、その周辺の牧草地で草を食む馬や、道の先にある葦毛崎の灯台などが描かれていたのが、後に馬や柵や灯台などが捨象されて、あの『道』という作品が生まれたのです。東山魁夷が住んでいた住まいのほんそばを走っていた木下(きおろし)街道は、そのような広々とした馬の放牧場の中を突っ切っていた道であり、東山魁夷は、その木下街道の風景を、バスの窓からか、あるいは歩きながら、見たことがあるのではないかと私は推測しています。古来、「道」は人の行き交う道であり、物資が流通する道であり、そして文化文物が伝播する道でもある。そして「道」は、人生の道でもある。東山魁夷の『道』は、それらすべてを含んだ道を、具体物を捨象して、抽象化した道であるように思われます。夏の早朝の道ということもあってか、それは希望や明るさへと通ずるような新鮮さと力強さを見せています。 . . . 本文を読む