鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その8

2013-10-12 05:36:28 | Weblog
「昭和八年の津波」の最後は「救援」です。津波が発生した同年3月3日と、その後数日の三陸地方の気温は零下7.8度~17.1度という厳しさであり、積雪が海岸を覆い、さらに雪もちらつくという状態であったという。強い地震で飛び起きた人々の多くが、地震がおさまるとまた布団にもぐりこんだのはその厳しい寒さにありました。赤沼山に逃げた人々がそこで見たものは、焚火がたかれていることであり、逃げてきた人々は厳しい寒さの中、それで暖をとったのです。「深夜、着る物も着ずに飛び出した生存者たちは寒気にふるえ、多くの凍死者」も出るありさまでした。そのような「寒気と飢えで呻吟していた」被災民に対して、救援活動が展開されました。当時は陸軍や海軍があり、陸軍ではただちに派遣部隊を編成し、トラックと徒歩による強行軍によって被災地へ急行し、海軍の場合は、大湊要港部や横須賀鎮守府などの駆逐艦が、釜石・宮古等の三陸海岸の港へと急行したという。岩手県の石黒知事が、被災当日、全県民に対して告諭を発表していますが、その中で注目されるのは、「時恰(あたか)モ郷土将兵ハ、熱河掃匪ノ為尽忠報国ノ至誠」を遂行している時だから、「希(ねがわ)クハ忠勇ナル出動将兵ヲシテ、後顧ノ憂ナカラシムルニ努メラルベシ」と結んでいること。当時は満州事変の最中であり、三陸海岸からも多くの青壮年たちが満州へと出征していたということについては、「住民」のところで吉村さんが指摘しているところ。郷土将兵が満州で尽忠報国の行動を遂行しているのだから、彼らに後顧の憂いをさせないためにも被災民もがんばれとの叱咤激励の仕方です。しかし救援物資の輸送は、内陸部からの道が狭いことや積雪のため、さらに地震や津波によって海岸沿いの道路が破壊されていたことによって、なかなかはかどらないという状況でした。三陸海岸各地への物資輸送は海上から行うのが最も適していましたが、岸近くで物資輸送を行わなければならない小舟のほとんどが流失したり破壊されたりしていて、意のままにはなりませんでした。住居については、家を失った被災民のためにまず急造バラックが建設され、さらにその後、個人用住宅も続々と新築されていきました。津波被災を避けるために高所移転が進められていきましたが、年月が経って津波の記憶が薄れるにつれて、逆戻りする傾向があった、と吉村さんは記しています。 . . . 本文を読む