鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その7

2013-10-10 05:35:44 | Weblog
「住民」の次は、「子供の眼」。ここに私が田老第一中学校の校舎(敷地)の左手に見た山である赤沼山が出て来ます。吉村さんは次のように記しています。「村民は、村の背後にある赤沼山をはじめとした高地に逃げた。が、道路はきわめてせまく押し合いへし合いしたため動きはおそかった。その人々に、津波は秒速一六〇メートルという恐るべき速度でのしかかってきたのだ。」 ここで吉村さんは、津波を経験した田老尋常高等小学校の作文をいくつか紹介しているのですが、その作文の中にも赤沼山が出て来ます。「お父うさんが弟をせおって、私は、くらい道をはせ、ようよう赤沼山にのぼると、よしさんたちは、もうたき火をしていました。」(尋三 川戸キチ)「笹にとっきながら赤沼山のお稲荷さんの所まで行くと、みんながもっと登って行くので、私達もはなれないように、ぎっしり手をとって人の後について山のてっぺんまで上って火をたいてあたりました。」(尋六 牧野アイ) 八人家族のうち、自分を除いて七名の家族を亡くして孤児となった牧野アイさんは、叔父の家、宮古町、北海道の根室と親戚の家を転々とした後、十九歳の年にふたたび田老に戻り、翌年、やはり津波で両親、姉、兄を失った、教員の男性と結婚しました。吉村さんはそのアイさん夫婦と会って話を聞いています。一部がここに収録されている作文は、田老尋常高等小学校の先生たちの指導でまとめられたものであり、同校生徒164名、2名の教員の死に対する鎮魂文でもある、と吉村さんは記しています。 . . . 本文を読む