鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その13

2013-10-19 05:49:22 | Weblog
千葉県市川市に市川市立東山魁夷記念館があり、私は2011年の2月にそこに立ち寄っています。洋風のペンションのような建物で、八角形の塔を伴っていました。そこを目指して訪れたわけではなく、東京の小名木川から、行徳を経て、利根川の木下河岸(きおろしがし)跡まで陸路を歩いた時(もちろん一度ではなく何度かに分けて)、成田街道から左折して木下街道(県道市川印西線)に入り、坂道をのぼってしばらくしていきなり現れたのがそのペンション風の建物であったのです。「ここに、東山魁夷の記念館があったのか」と、当初は意外に思いましたが、受付の方から、「ここは東山魁夷先生のお住まいがあったところの近くなんですよ」と言われて、合点がいったことを思い出します。つまり東山魁夷のお住まいは、木下(きおろし)街道に沿ったところにあり、東山魁夷にとって木下街道はきわめて身近な生活の「道」であったということになります。かつてこの木下街道は、利根川の木下河岸から陸揚げされた物資が江戸へと運ばれた道であり、また江戸の物資が木下河岸へと運ばれた道であり、その木下河岸は利根川河口の銚子を経て、海上交通により東北地方と繋がっていたことはすでに見てきたところです。東関東地方や東北地方の物資が馬の背で行徳まで運ばれていったのです(行徳からは新川や小名木川、日本橋川を経て江戸日本橋まで運ばれる)。ちなみに渡辺崋山は、日本橋から日本橋川や小名木川などを経て行徳まで行き、成田街道→木下街道を経て、利根川の水上交通を利用して銚子まで赴いています(「四州真景」の旅」)。木下(きおろし)街道のそばに住んでいた東山魁夷は、もちろんそのような重要性を持った木下街道の歴史についてはなにがしかの知識を持っていたと思われるし、また東山魁夷にとってその木下街道はきわめて身近な生活の道であったから、私はあの「道」という作品を観た時、それは木下街道のどこかを描いたものかと思ったほどです。しかし、実はそうではなくて、それは青森県の太平洋に面する種差海岸近くのある道をもとに描いたものであることを知りました。しかし私には、あの「道」には、東山魁夷にとってきわめて身近であった木下(きおろし)街道に対する思いも、なにがしか含まれているのではないかと思われるのです。 . . . 本文を読む