鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その4

2013-10-07 05:22:26 | Weblog
「前兆」の次が「来襲」。中央気象台が地震を記録したのは、3月3日の午前2時32分14秒。まだまだ厳寒の時期で、やはり中央気象台の記録によると、その時刻の気温は零下10度近くであったという。強震に驚いた人々は、布団から飛び出て戸外に走り出たものの、その寒さのために震動がやむと布団の中にもぐり込みました。というのも、三陸沿岸の住民には一つの言い伝えがあって、それは冬期と晴天の日には津波がない、というものでした。その折も多くの老人たちが、「天候は晴れだし、冬だから津波はこない」と断言したとのこと。しかしその後、津波は三回から六回まで三陸海岸を襲うことになったのです。ここでも吉村さんは、津波の押し寄せ方が千差万別であることを指摘しています。海岸の地形、震源地からの距離、湾口の開いている方向などが作用し、さまざまな形をとるのですが、各地からの報告の記録をもとに、吉村さんは以下の三種に津波の形態を分類しています。①屏風を立てたように襲来してくるもの。②山のように盛り上がって襲来してくるもの。③重なり合うようにして襲来してくるもの。そしてその「来襲」の次が、「田老と津波」であり、明治29年の大津波と同様に、この昭和8年の時もその被害の状況が最も悲惨であった下閉伊郡田老村のことが詳述されています。 . . . 本文を読む