鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その10

2013-10-14 04:23:22 | Weblog
「三 チリ地震津波」の最後は「津波との戦い」。吉村さんはまず指摘する。「津波は、今後も三陸沿岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。」 「しかし」と吉村さんは、田老町の取り組みを例に出す。田老町は明治29年(1896年)に死者1859名、昭和8年(1933年)に911名と、2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であったが、町の人々はその津波被害防止のために積極的な姿勢をとり、巨大な防潮堤を建設し、その防潮堤の存在によって昭和35年(1960年)のチリ津波の時には死者もなく家屋の被害もなかったこと。さらに田老町は、広い避難道路を建設し、避難所や防潮林、警報器などの設備も完備し、町を挙げての避難訓練も毎年3月3日に実施していること。そのような田老町の津波対策を例に挙げて、吉村さんは、「他の市町村でもこれに準じた同じような対策が立てられているから」、たとえ大きな津波が来ても「被害はかなり軽減されるに違いない」とやや楽観的な見方を示しつつも、田野畑村羅賀の中村丹蔵さんの証言から、大津波によっては「海水は高さ10メートルほどの防潮堤を越すことはまちがいない」と指摘するのを忘れない。つまり田老町に見られるような頑丈で巨大な防潮堤であったとしても、巨大津波が生ずれば、その津波はその巨大防潮堤を軽々と越えて内陸部に流入し、被害をもたらすことが十分にありうるのだ、と吉村さんは断言していたのです。吉村さんは平成11年(1999年)、田野畑村の羅賀の「ホテル羅賀荘」で「災害と日本人-津波は必ずやってくる」という題で講演をしています。そこでも吉村さんは地元羅賀の中村丹蔵さんの証言を紹介しています。10数メートルの防潮堤を軽く越えてしまうような巨大津波(そしてそれをも含めた自然災害など)は「必ずやってくる」のだから、それへの対策は(想定の範囲外に置いてしまって、あとで「想定外だった」と言い訳をするようなことはせずに)しっかりと怠らずにやっておくべきだ、というのが吉村昭さんが最も「伝えたかったこと」であったと私は考えています。 . . . 本文を読む