鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その14

2013-10-20 06:19:24 | Weblog

 海際の岩礁が見える地点に達すると、芝原にはややえぐれて下の砂地が露出している箇所がありました。

 そしてその先の芝原は斜面になって海岸へと落ち込み、海岸部分は黒い大きな岩が露出して連続しています。

 この地点は海面からは10mほどの高さがあり、海岸の砂浜にいる観光客の姿は小さく見えます。

 あとで聞いたところによれば、この種差海岸にも津波は押し寄せ、その高さは芝原の先端部分に達するほどであったという。

 その津波は6mほどの高さであって、芝原全体を覆うものではなかったのですが、種差漁港はその津波によって大きな被害を受けたらしい。

 三陸リアス式海岸の断崖絶壁の連続する風景とは対照的に、広大な芝原と、その先の青海原が広がることによって、ちょっと「牧歌的」とも言えるような穏やかな風景が印象的な種差海岸ですが、ここにも巨大津波は押し寄せ、海岸べりに連続する岩礁にぶつかっていたのです。

 そこから左手の高台へと芝原を上がっていくと、東屋(あずまや)があり、そこから種差海岸の全体を見晴るかすことができました。

 その東屋から駐車場の方へと戻って行くと、道路沿いにバス停があり、「淀ノ松原」と記されていました。このあたりの松原は「淀ノ松原」という名前であることを知りました。

 駐車場に戻って車に乗り、舗装道路を葦毛崎の灯台の方に向かって走って行くと、道の左手に「道」という文字と、『道』の絵が掲載された銀色の標柱を見掛けたので、少し先へ進んで、左手の「タイヘイ牧場」の入口のところで車を旋回させ、道を戻って、その標柱があるところのわずかの駐車スペースに車を停め、その標柱に近寄って見ました。

 標柱には、「道 東山魁夷」と書かれ、また「道」の下に『道』の絵がモノクロで掲載されていました。

 さらにその『道』の絵の下には、「昭和二十五年度 第六回日展出品 東京国立近代美術館所蔵」と記されていました。

 その標柱の傍らを走る舗装道路の先の、樹林の上には、白い葦毛崎の灯台がその全体を見せていました。

 舗装道路の向こう側は海食崖となっていて、陸地は海面へと落ち込んでいます。

 車の通行を見た上で、舗装道路の真ん中へと出て、その正面突き当りが葦毛崎の灯台になるように写真を撮ってみました。

 その『道』記念碑のところを出発したのが、12:50。

 「葦毛崎展望台」の駐車場に着いたのが12:53。

 そこには「国指定名勝種差海岸 種差海岸階上岳県立自然公園 葦毛崎展望台」と記された案内板が立っていました。

 それによれば、南部藩は古くから知られた馬産地であり、広大な放牧地の一部であった葦毛崎は、葦毛の馬にちなんで名付けられたと言われてているという。

 ここは、太平洋戦争の最中、海軍通信部隊基地の防空電波探知機が設けられていたところであり、現在は、太平洋の大パノラマを楽しめる展望台となっている、とのこと。

 また、白亜の灯台の名前が「鮫角灯台」であることも、その案内板で知りました。

 東山魁夷が種差海岸をスケッチした時に描いた葦毛崎の灯台は、「鮫角灯台」という名前であったのです。

 その葦毛崎の先端にある展望台は、ヨーロッパの中世の古城の一部のようなたたずまいを見せており、階段状の遊歩道を、その要塞のような展望台へと上がって行きました。

 

 続く(次回が最終回)

 

〇参考文献

・『江戸後期の新たな試み-洋風画家谷文晁・渡辺崋山が描く風景表現』(田原市博物館)

・『渡辺崋山 優しい旅人』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿