鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その13

2013-10-19 05:49:22 | Weblog

 海岸に出たところで左折し、左手にあった観光客用の駐車場に車を停めて、さっそく海岸を歩いてみることにしました。

 道路隔てた向こう側には、ゆるやかな起伏のある広大な芝生の広場が広がり、その先の海原との境にはところどころ黒い岩礁が見えています。

 その芝生広場の右手にちいさな半島があり、それは長く海へと突き出ています。

 その入江に面して、半島の裾には集落があり、半島の海岸べりには岸壁のようなものもあるから、そこは漁港であるように思われました。

 左手を見ると、その芝生広場には松樹がわずかに繁り、その向こうは芝生のままやや高台になっています。

 駐車場にはかなりの車が停まっていて、訪れている観光客もそれなりにいるのですが、その芝生広場が広大で、またそれを含めた海岸全体の風景が伸びやかであるために、芝生広場を歩いている観光客の姿はとてもまばらに見えます。

 芝生は天然芝生であり、ゴルフ場のような人工的なものではとうていありません。

 ずっと昔からここにはこういう伸びやかな海岸風景が展開されていたのでしょう。

 日本ではないどこかの海岸では…、と錯覚するほどちょっと異国的な感じがする海岸です。

 今まで三陸海岸のリアス式海岸、それも切り立った断崖絶壁を伴ったものや津波被災地をずっと見てきただけに、なおさらそういう印象を強く感じたのかも知れません。

 芝生広場の一画には、「新日本観光地百選」の看板と、「国指定名勝・県立自然公園『種差海岸』  種差海岸ゆかりの文化人  鳥瞰図画家『吉田初三郎』と種差海岸」と記された案内板がありました。

 その案内板によると、種差海岸は、岩手県から続く「三陸リアス式海岸」の北端に位置しており、昭和12年に「名勝種差海岸」として指定されたのだという。

 海岸線は、砂浜部分を除いては荒波の浸食によってできた海食崖(かいしょくがい)で、この海岸は堅い岩が連続的に露出し、広大な砂浜や自然の芝生が自生する芝原によって、変化の多い海岸線が、種差海岸独特の景観を形成しているとのこと。

 「種差海岸ゆかりの文化人」としては、草野心平、佐藤春夫、司馬遼太郎、東山魁夷、三浦哲郎の5人の説明が記されていました。

 そのうち、「東山魁夷」については、次のようなことが書かれていました。

 東山魁夷が種差海岸をまず訪れたのは昭和15年(1940年)のことであり、その時に風景をスケッチしています。

 その後、昭和25年(1950年)に再び種差海岸を訪れて、第6回日展に出品した『道』を描きました。

 東山氏は、随筆『風景との対話』の中で、『道』という作品について、「ひとすじの道が、私の心に在った。夏の早朝の野の道である。青森県種差海岸の、牧場でのスケッチを見ている時、その道が浮かんできたのである。」と述べています。

 そのスケッチは、正面の丘に灯台が見える牧場のスケッチでした。

 『道』という作品は、そのスケッチから牧場のの柵、放牧されている馬、灯台を取り去って道だけを描いたらという発想により完成したもの。

 題材となった場所は、現在の葦毛崎展望台から大須賀へと通じる道で、その道路沿いには『道』の標柱が建てられています。

 その東山魁夷などのことが記された案内文の下には、先ほど種差海岸駅にあったものと同じ観光案内マップが掲載されていました。

 また「鳥瞰図の画家『吉田初三郎』と種差海岸」の説明も興味深いものであり、私は「空飛ぶ浮世絵師」五雲亭貞秀の鳥瞰図をここで想起してしまいました。

 その説明文の下には昭和29年(死の前年)に描かれた八戸市の鳥瞰図が掲載されていました。

 その案内板等を見た後、さっそく広い芝原を、その先の海岸べりに露出した黒い岩礁あたりまで歩いてみることにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・このブログの、「2011.2月取材旅行『行徳~八幡~鎌ヶ谷』その5」および「その6」



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