鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その10

2013-10-14 04:23:22 | Weblog

 海岸に沿った道路をしばらく歩いてから車へと戻り、島越(しまのこし)を出発したのが7:18。

 しばらく走ると、道路沿いにきれいな花壇があって、その中心に「←田野畑駅」という案内標示が立っていました。

 左手の山のコンクリートで覆われた斜面の下に駅舎があり、その向こうに観光物産館のような2階建ての瀟洒な建物が建っていました。

 駅前広場には、先ほど「カルボナード島越」駅の碑文に記してあったように、宮沢賢治の「発動機船 三」の刻まれた石碑が立っています。

 それには「魹(とど)の崎の燈台」や「羅賀」という近辺の地名も出て来ます。

 2階建ての建物には「カンパネルラ田野畑」と記された桜模様が散らばった可愛い看板が掛けられ、また壁面も白地にピンクの桜模様であり、また壁面には、「地元高校生から届いた“大切な人へのはげましの言葉”より、「はげましの言葉」のいくつかが記されていました。

 駅舎や2階建ての建物がそのまま残っているということは、ここまでは津波は押し寄せなかったことがわかります。

 駅前の「ようこそ たのはたへ」と記された観光案内宮沢マップもしっかりと立っています。

 それを見ると、三陸鉄道北リアス線の「現在地」である「カンパネルラたのはた駅」の手前の駅は「カルボナードしまのこし駅」であり、その南に「切牛」があり、その海岸沿いに「鵜の巣断崖自然遊歩道」があって、「吉村昭文学碑」と記されています。

 「カンパネルらたのはた駅」から国道を北上すると、右手の海岸に「ホテル羅賀荘」があり、「羅賀漁港」があります。

 さらに北上していくと、右手の海岸に「『遊歩百選』北山崎自然遊歩道」があり、国道は「久慈」方面へと続いています。

 観光案内マップの観光地図の下には、「カンパネルラとは?」とあって、宮澤賢治の童話である『銀河鉄道の夜』の主人公の友人の名であり、またその性格が「三閉伊一揆」の指導者を生んだ村の風土に合い、正義感に富んだ人物を輩出することを願った愛称である、といったことが記されていました。

 ここまでは津波は到達していないと思い込んでいたところが、駅前の一画に、「2011年3月11日 津波到達地」と刻まれた石柱が立てられているのを見つけました。

 津波は谷合いを駆け上がって来て、津波の先端はこの駅前のロータリー近くまでやってきていたのです。

 さっそく、駅舎の中へと足を踏み入れてみました。

 三陸鉄道北リアス線の線路はしっかりと敷設されており、左の島越方面を見ても、右の久慈方面を見ても、線路はまっすぐに延びていて、両方ともトンネルの中に消えていました。

 左の島越方面のトンネルを抜ければ、先ほど目にしたように津波のために破壊された「松前川鉄道橋梁」工事が行われており、線路は断絶していています(線路はなくなっています)。

 その橋梁上にあった観光物産館を兼ねていた駅舎(カルボナードしまのこし駅)は、津波のために破壊され、流失し、その姿をすべて失っています。

 反対側のホームからは、島越方面の左下に太平洋に落ち込む断崖と海面のきらめきが見え、また島越で見たようなプレハブ平屋の漁業用資材置き場であると思われる白い建物を見ることができました。

 この駅舎やホームは、海抜20m近くはありそうな高台にあるのですが、海岸から押し寄せた津波はこの駅前のロータリーのあたりまで到達していたということを、先ほどの「津波到達点」と刻まれた石柱で知り、津波の怖さをまざまざと知る思いでした。

 その「カンパネルラたのはた駅」前を出発したのが7:32でした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『三陸海岸大津波』吉村昭(文春文庫/文藝春秋)

・『文藝春秋 9月臨時増刊号 吉村昭が伝えたかったこと』(文藝春秋)



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