鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「宮古~久慈~八戸」   その8

2013-10-12 05:36:28 | Weblog

 田野畑村へと入り、途中でカーナビに従って国道45号線を右折し、三陸海岸の島越(しまのこし)へと向かう道路へと入りました。

 その道路を走ってしばらくして、平地の林を切り拓いて造成した区画が広がったところを通ったので、車道脇に車を停めて造成地を歩いてみると、「『心をひとつに未来に向けた復興』田野畑村」と記された真新しい看板が立っていました。

 それには「島越地区【切牛】計画図」とも記されていて、造成地の計画図が示されていました。

 ほぼ均等に割り振られた区画が集合している住宅団地であり、また少し離れたところには墓所も付属しています。

 「発注者」は「岩手県土地開発公社」となっています。

 造成地を見回すと、重機やトラックが置かれていたり、コンクリートの建築用資材が置かれていたりします。

 察するに、これは田野畑村島越地区切牛の高台集団移転先であると思われました。土地の造成はかなり進んでいるように見受けられました。

 その造成地の東寄り(海岸寄り)の外れに「県道44岩手」「岩泉平井賀普代線 ↑島ノ越5.1km 田野畑村浜岩泉」と記された道路標示があり、この道路が「県道44号線」であり、現在地が「浜岩泉」というところであり、「島ノ越」から「5.1km」離れた地点であることがわかりました。

 この道路を進めば、あと5.1kmで目指す「島ノ越」に着くことになります。

 おそらく、かつての夏、吉村昭さん一家を乗せた「島ノ越」へと向かうバスは、この道を走って行ったものと思われました。

 その道路標示の手前には、「↑島越 観光船発着所」と記された看板も立っていて、「島越」からは「観光船」が発着していることを知りました。

 車に戻って、造成地から先へと進むと、道路は林の繁る急斜面を蛇行しながら下っていき、そしていきなり海岸に出たところで左折して進んで行くと、まもなく道路右手の防潮堤に沿って、新しく造られたばかりのプレハブ平屋の建物が2棟並んでいるところがあり(一見すると仮設住宅のようにも思われましたが、そうではないことにしばらくして気付きました)、車をその近くに停めて、歩いてみることにしました(6:53)。

 ともかく、このあたりが島越(しまのこし)であることは、まず間違いはないはずです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『三陸海岸大津波』吉村昭(文春文庫/文藝春秋)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿