田老第一中学校のグラウンドの横の道を赤沼山を右手に見て少し進むと、山の斜面が右手に迫り、その斜面はコンクリート壁となっていて、そのコンクリート壁の上にはフェンスが張られていました。
フェンスの内側はコンクリートの階段になっていて、山の斜面の高台に建つ人家へと 延びています。
そのフェンス内側のコンクリートの階段を少し上がって、そこから湾口とその手前の第一防潮堤の方角を眺めてみましたが、碁盤目状に舗装道路によって区画されたかつて人家があったであろう土地は、夏草が青々と茂る更地の広がりとなっていました。
土地が道路によって碁盤目状に区画されているということが、この土地が津波によって大きな被害を受けた後に区画整理されて出来たものであることを示しています。
かつては背後の赤沼山に逃げるのに、「道路がきわめてせまく押し合いへし合いしたため動きはおそかった」と吉村昭さんが記しているように、昭和8年当時においても、人家が密集して道路もきわめて狭い漁村集落であったのだと思われます。
私は、四国の太平洋岸の漁村集落をいくつか歩いた記憶がありますが、そこはどこも人家が狭い区画に密集していて、狭い路地が縦横に走っている空間であったことを記憶しています。
おそらく田老村も、そのような集落であったのが、昭和8年の大津波の被災以後、周囲の山々へと避難しやすいような、道路を中心とするまちづくりが行われたことが、ここからの更地となった情景からうかがい知ることができました。
その情景を眺めた後、車を停めたところに戻り、ふたたび国道45号線を走って、「道の駅たろう」に到着したのが6:03。
まだ早朝とあって、「道の駅」のお店は開いていません。
案内マップを見て、この国道45号線をさらに北上すると、まもなく田野畑村に至ることを確認。三陸鉄道北リアス線に「しまのこし」駅があることも確認できました。その太平洋岸には「島越浜」とあり、その南側には「鵜ノ巣断崖」とも記されています。
吉村昭さんは夏になると家族で、この田野畑村島越(しまのこし)に海水浴等に出掛けていましたが、東京から東北本線で盛岡まで来て、盛岡から山田線で茂市で乗りかえて浅内まで行き、そこからバスで岩泉まで行ってそこで一泊。翌朝、再びそこからバスに乗って島越へと向かっています。
その岩泉が現在では終着駅である岩泉線は、山田線の茂市から途中で分岐しています。
東京から岩手県の田野畑村島越までの移動は、当時においても大変なものであったと思われますが、吉村さん一家は、毎年のように夏になると島越へと出掛けたということであり、吉村さんをはじめとした一家の島越海岸への愛着はそれほどに深かったものと察せられました。
「道の駅たろう」で観光案内マップを確認した後、いよいよその田野畑村島越(しまのこし)へと車を走らせました。
続く
〇参考文献
・『三陸海岸大津波』吉村昭(文春文庫/文藝春秋)
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