柳森神社は通りより石段を少し下ったところにあり、その境内は神田川に沿っています。確かなことは言えませんが、かつては神田川に沿った河岸(「柳原河岸」「稲荷河岸」)にあったのではないかと思われました。現在の柳原通りと境内地に段差があるのは、境内地の南側に土手道(柳原土手)があった名残りではないか。その土手は崩されて(明治6年)、柳原通りとなり、神田川に面した河岸は盛土をされ護岸工事がなされて、家やビルが建てられていったのです(現在の神田川両岸は、河岸であった面影はほとんどありません)。
石段を下りていってすぐに目に入ってきたのは、右手の「富士講関係石碑群」の案内板。「千代田区指定有形民俗文化財」とあり、設置したのは千代田区教育委員会。確かに右角のわずかな一郭に、「神田講社」とか「神田八講」と刻まれた石碑が集められています。
案内板によると、柳森神社は、駿河富士宮浅間神社から分祠して富士浅間神社を合殿・合祠しており、富士講に関わりが深い神社。境内にはかつ富士塚も築かれていたらしい。再建された富士塚も、戦後は富士講が衰退したこともあって昭和35年(1960年)に破却されてしまうのですが、その富士塚の黒ぼくの石(富士山の溶岩石)を積み上げて、そこに富士講の石碑を設置し直したというもの。石碑は五つ集められています。
案内文の終わりには次のように書かれています。
「『富士講関係石碑群』は、江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。」
幕末と明治維新の頃、そして昭和5年から昭和35年にかけて、柳森神社境内には富士塚があった(後者は再建された富士塚)ことになりますが、そうしてみると、柳原神社の境内地は現在よりももっと広かったのかも知れない。
この神社は「柳森稲荷」と呼ばれましたが、狐ではなく、狸が祀られ、「お狸さま」と親しまれたらしい。5代将軍綱吉の母であった桂昌院の信仰が篤かったとも。桂昌院はもともとは京都の八百屋の娘であったのが、3代将軍家光の側室となり、そして5代将軍綱吉の母となったことから、立身出世の神さまとして庶民の信仰を集めたようです。
境内の木製ベンチに座って小憩。各所に水の入った容器が置いてありますが、一匹の老猫がよたよたと歩きながら、その水を飲み回っていました。
ふたたび柳原通りに出て、右折。東北線柳原通ガードを潜ってまもなく、右手に万世橋。この万世橋を渡って北進すれば秋葉原電気街。
「万世橋」の案内板によれば、この万世橋から神田川の上流約150mのところに筋違(すじかい)橋門があったのですが、明治5年(1872年)に解体され、その桝形石垣を転用して、門の跡に東京最初の石橋として造られたのが万世橋。そのアーチが川面に写った姿から「眼鏡橋」として親しまれていましたが、明治39年(1906年)に撤去。
明治36年(1903年)に、この地にあった木橋(新万世橋)が鉄橋となり、石橋の万世橋が撤去されてからは、この鉄橋が万世橋と言われることになったということであるらしい(現在のは昭和5年〔1930年〕に架橋されたもの)。
したがって、樋口一葉や中江兆民が知っている万世橋は、かつての石橋であった万世橋(「眼鏡橋」)ということになり、現在のそれよりも150mほど神田川の上流にあったことになります。
この筋違(すじかい)門および万世橋付近は、幕末・明治を通して、かなり大きく変貌したところであったようです。
左折し、須田町交差点(靖国通りと中央通りが交差)を右折し、渡ってから右折。
神田須田町には柳森神社の摂社や、鳥すきやきの「ぼたん」などの老舗がありました。
淡路町の交差点を右折。右手に神田郵便局を見て、昌平橋(「一口〔いもあらい〕橋」、「相生橋」とも)を渡ります。
渡ると、「千代田区町名由来板 神田旅籠町」というのがありました。かつてはここに旅籠がたくさんあったそうですが、幕末の頃にはほとんど姿を消し、その代わりに米・炭・塩・酒などを商う問屋が増加していたとのこと。やはり神田川水運と深い関係があったのでしょう。
昌平橋際で小憩した後、ふたたび橋を渡って戻り、中央線昌平橋ガードを潜って左折。
筋違(すじかい)門がかつてあったところに立っているという案内板を探してみました。
続く
○参考文献
・『百年前の東京絵図』山本松谷画・山本駿次郎編(小学館文庫/小学館)
・『江戸城を歩く』黒田涼(祥伝社新書/祥伝社)
・『千代田区の今と昔 人と生活』黒坂判造(丸善出版サービスセンター)
石段を下りていってすぐに目に入ってきたのは、右手の「富士講関係石碑群」の案内板。「千代田区指定有形民俗文化財」とあり、設置したのは千代田区教育委員会。確かに右角のわずかな一郭に、「神田講社」とか「神田八講」と刻まれた石碑が集められています。
案内板によると、柳森神社は、駿河富士宮浅間神社から分祠して富士浅間神社を合殿・合祠しており、富士講に関わりが深い神社。境内にはかつ富士塚も築かれていたらしい。再建された富士塚も、戦後は富士講が衰退したこともあって昭和35年(1960年)に破却されてしまうのですが、その富士塚の黒ぼくの石(富士山の溶岩石)を積み上げて、そこに富士講の石碑を設置し直したというもの。石碑は五つ集められています。
案内文の終わりには次のように書かれています。
「『富士講関係石碑群』は、江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。」
幕末と明治維新の頃、そして昭和5年から昭和35年にかけて、柳森神社境内には富士塚があった(後者は再建された富士塚)ことになりますが、そうしてみると、柳原神社の境内地は現在よりももっと広かったのかも知れない。
この神社は「柳森稲荷」と呼ばれましたが、狐ではなく、狸が祀られ、「お狸さま」と親しまれたらしい。5代将軍綱吉の母であった桂昌院の信仰が篤かったとも。桂昌院はもともとは京都の八百屋の娘であったのが、3代将軍家光の側室となり、そして5代将軍綱吉の母となったことから、立身出世の神さまとして庶民の信仰を集めたようです。
境内の木製ベンチに座って小憩。各所に水の入った容器が置いてありますが、一匹の老猫がよたよたと歩きながら、その水を飲み回っていました。
ふたたび柳原通りに出て、右折。東北線柳原通ガードを潜ってまもなく、右手に万世橋。この万世橋を渡って北進すれば秋葉原電気街。
「万世橋」の案内板によれば、この万世橋から神田川の上流約150mのところに筋違(すじかい)橋門があったのですが、明治5年(1872年)に解体され、その桝形石垣を転用して、門の跡に東京最初の石橋として造られたのが万世橋。そのアーチが川面に写った姿から「眼鏡橋」として親しまれていましたが、明治39年(1906年)に撤去。
明治36年(1903年)に、この地にあった木橋(新万世橋)が鉄橋となり、石橋の万世橋が撤去されてからは、この鉄橋が万世橋と言われることになったということであるらしい(現在のは昭和5年〔1930年〕に架橋されたもの)。
したがって、樋口一葉や中江兆民が知っている万世橋は、かつての石橋であった万世橋(「眼鏡橋」)ということになり、現在のそれよりも150mほど神田川の上流にあったことになります。
この筋違(すじかい)門および万世橋付近は、幕末・明治を通して、かなり大きく変貌したところであったようです。
左折し、須田町交差点(靖国通りと中央通りが交差)を右折し、渡ってから右折。
神田須田町には柳森神社の摂社や、鳥すきやきの「ぼたん」などの老舗がありました。
淡路町の交差点を右折。右手に神田郵便局を見て、昌平橋(「一口〔いもあらい〕橋」、「相生橋」とも)を渡ります。
渡ると、「千代田区町名由来板 神田旅籠町」というのがありました。かつてはここに旅籠がたくさんあったそうですが、幕末の頃にはほとんど姿を消し、その代わりに米・炭・塩・酒などを商う問屋が増加していたとのこと。やはり神田川水運と深い関係があったのでしょう。
昌平橋際で小憩した後、ふたたび橋を渡って戻り、中央線昌平橋ガードを潜って左折。
筋違(すじかい)門がかつてあったところに立っているという案内板を探してみました。
続く
○参考文献
・『百年前の東京絵図』山本松谷画・山本駿次郎編(小学館文庫/小学館)
・『江戸城を歩く』黒田涼(祥伝社新書/祥伝社)
・『千代田区の今と昔 人と生活』黒坂判造(丸善出版サービスセンター)
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