鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・春の山行:明神峠~三国山~大洞山 その最終回

2010-05-17 06:46:56 | Weblog
 大洞山の頂上から、籠坂峠には向かわず、もと来た道へと戻ったのは8:25。ややえぐれた登山道を戻っていきます。新緑の頃は美しい尾根道であるに違いない。

 今まで見てきた案内板を見ながら進んでいきますが、ところどころに、倒木したその根が何かの造形物のように剥き出しになった姿が見られます。

 案内板の一つをよく見てみると、この案内板の製作者がわかりました。小山町の小山にお住まいの方で、81歳の男性。この案内板を制作して設置したのが2008年4月6日の頃のようだから、現在は83歳ということになる。「三国山・不老山」を結ぶこの三国山ハイキングコースをこよなく愛されている方に違いない。愛していてもこういう丁寧で美しい看板を作ろうとはなかなか思わないわけで、とても奇特な方であると思いました。

 「ごんぐのベンチ」を過ぎて10分ほど、先ほどは気付かなかった道標が目に入りました。「あざみ平1時間15分 かご坂峠2時間 明神山経由平野湖畔1時間25分」と記してあります。「平野湖畔」というのは山中湖畔の平野というところでしょう。明神山を越えて平野へ行く道があるようです。

 武田信玄が通ったという「づな峠」を進みます。このあたりは平坦な稜線で、登山道の周囲は広く雑木林が広がり、やはり新緑の頃に歩くと美しいだろうなと思いました。

 三国山頂をふたたび越えたのは9:09。

 ここから、鉄砲木の頭(あたま)まで、いつか歩いてみたいと思いました。

 三国山から下っていく尾根道の途中で、左手の樹林の奥の方、下に水面の広がりが見えましたがあれが山中湖であるに違いない。行きは気付きませんでした。山中湖方面や道志の山々には、富士山爆発による火山灰を含んだ偏西風の通り道ではなかったため、火山灰の堆積はほとんどありませんでした。

 おそらくそのために、三国山系と道志山系の樹相は大きく異なるものと思われますが、それを実地に歩いて確かめることは今回は出来ませんでした。

 三国山を下って、舗装道路を横切るあたりから雨がポツポツと降ってきました。それまでもところどころポツポツと雨に降られましたが、このあたりから次第に雨粒が大きくなってきて、明神峠へ向かう尾根道を歩いている頃には、次第に雨足が強くなり、また一気にあたりは暗く寒くなってきました。霧も出てきました。

 天気は次第に晴れてくるものと思っていたところが、まさかこのような雨になるとは思ってもいませんでした。ヤッケを着ていたものの、やがて雨はヤッケを通してフリースの衣服をも濡らすようになってきました。撥水加工のしてある登山靴にも雨が沁みこんできたようです。

 足を速めて、明神峠の入口手前の石段にたどりつき、そこから舗装道路を強い雨を受けながら、車を停めてある場所に戻りました。

 練馬ナンバーの車はまだ停まっていましたから、あのチラと見かけた男性は、どこかの登山道で雨に降られているに違いない。

 私も、もし大洞山で引き返さず、籠坂峠へ向かっていったなら、途中でこの雨に遭遇していたはず。びしょぬれになったことでしょう。

 あの時、戻ろうと思ったのは、結果的に見れば正しい決断でした。

 車に乗り込んで、車道を上野へと下り、交差点を左折。小山町立図書館駐車場に車を停めようと思いましたが、雨脚は強く、車から降りられるような状況ではない。

 ということで、小山市街へと向かい、その市街手前にあった「コメリ」で安いトレーナーのズボンとポロシャツを購入して、濡れた衣服と着替えてから雨が止むのを車内で待ち、雨が上がってから小山町立図書館へと入りましたが、その時にはすっきりと空は晴れ、西方に富士山がその全容を現していました。

 その日、初めて眺めた富士山でした。


 終わり


○参考文献
・『小山町史第九巻民俗編』(小山町)
・『富士山宝永大爆発』永原慶ニ(集英社新書/集英社)


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