三国山の山頂を、大洞山に向かって出発したのは7:30。木漏れ日は差していますが、薄曇で強い風音が時々あたりに響き渡ります。
山頂から下っていくと、先ほどのオオバギボウシ(?)が、道行く人を迎えるかのように登山道の両側に群生しています。茶褐色の地表に、生き生きとした明るい緑を見せています。道は黒褐色で、その両側は枯れ葉の積もったような茶褐色とそこに群生するギボウシの緑。道が黒褐色であるのは堆積したテフラが露出しているからです。
10分ほど、林の中の心地良い道を歩いていくと、きれいな案内板が現れました。真ん中には「づな峠」と白く書かれ、湯船山から明神峠、三国山を経て、大洞山からあざみ平を経て畑尾山までのルートが示されており、「ここづな峠は武田信玄が元亀元年(1570年)に深沢城(御殿場市)攻略にな向か」ったところとある。柱の上はてっ辺が赤く、その下が白く塗られています。とても丁寧に描かれ、そして作られた案内板でした。
このあたりは「づな峠」とはなっていますが、平らな広がりを見せており、やはり火山灰が厚く堆積したところであるでしょう。道は黒々と、まだ新緑を見せていない林の中を、ゆるやかにカーブしながら続いていきます。
「ごんぐのベンチ」と書かれた案内板のところで、向こうから上がってきたご夫婦の方と出会いました。
普段着に近い服装をしていられたので、
「どちらから上がって来られたんですか」
と声を掛けると、
「三国峠に車を停めて、そこから歩いて来ました」
とのこと。
「まだ新緑は出ていませんね」
と言うと、
「あと1ヶ月ほど後でしょう」
とおじさんの方。
「どちらから」
と聞かれたので、
「神奈川から。明神峠の方から歩いてきました」
というと、
「じゃあ、けっこう歩いたでしょう」
このあたりのことをよくご存知のご夫婦のようでした。
今回の山行で出会って話を交わしたのは、結局、このご夫婦2人だけでした。
「ごんぐのベンチ」の案内板も、先ほどの案内板と同じ人の作品だと思われました。「ごんぐ」とは「欣求浄土(ごんぐじょうど)」の「ごんぐ」であるようです。
ギボウシが群生しているのを眺めながら歩くこと15分ほど、今度は目が覚めるほど美しいというか可愛いというか、大きな案内板が現れました。これも今までの案内板の作者と同じ人が作ったもののようです。こんなに丁寧で可愛いらしく、情報が満載の、見ていて楽しい案内板には、山中ではまず出合ったことがありません。
その案内板の左端には、「世附峠 不老山」と書かれ、右端には「篭坂峠」と書かれています。右上には白雪をかぶった富士山が突き出ており、今まで歩いて来た稜線が……で記されています。シロヤシオやサンショウバラ、ウギの花なども美しく描かれており、また中・高校生向けのクイズも載っています。
また「現在地から上の…のルートで不老山を越えてスルガオヤマ駅に至る距離は19.2km。中高年女性の足で6時間20分(含む、小、大休止)(81才老爺の足で計ったもの)」とあったから、これらの一連の案内板の作者は、どうも81歳を超えるおじいさんのようであるらしい。その方は、この現在地から駿河小山駅までをその年齢で歩いている人でもあるのです。
この案内板に出合った嬉しさで、その案内板を何枚かの写真におさめました(8:01)。
それからまもなく、同じ作者のものと思われる、「自然環境保全特別地区 一木一草もたいせつに!」と記された看板。その看板の場合、富士山は左上に突き出していました。
大洞山の頂上に着いたのは、その看板を見てから15分ほど後。
「大洞山頂 標高1383.5m」「籠坂峠大人70分 三国山ハイキングコース 三国山大人55分」と記された道標が立っていました。なんと、この大洞山は三国山よりも標高が高かったのです。
ここ大洞山頂まで来て、予定を変更して籠坂峠までこのまま歩いて、下の道から明神峠まで戻ろうか、それともここからもと来た道を明神峠近くまで戻ろうかと、少しばかり思案しましたが、上野から明神峠付近まで舗装道路を上がっていくのはちょっときついだろうなと思って、結局ここからもと来た道を戻ることにしました。逆方向を見て行くという楽しみもあるわけなので。
この判断が実は正しかった(良かった)ことを、私は後で知ることになりました。
続く
○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)
・『富士山宝永大爆発』永原慶ニ(集英社新書/集英社)
山頂から下っていくと、先ほどのオオバギボウシ(?)が、道行く人を迎えるかのように登山道の両側に群生しています。茶褐色の地表に、生き生きとした明るい緑を見せています。道は黒褐色で、その両側は枯れ葉の積もったような茶褐色とそこに群生するギボウシの緑。道が黒褐色であるのは堆積したテフラが露出しているからです。
10分ほど、林の中の心地良い道を歩いていくと、きれいな案内板が現れました。真ん中には「づな峠」と白く書かれ、湯船山から明神峠、三国山を経て、大洞山からあざみ平を経て畑尾山までのルートが示されており、「ここづな峠は武田信玄が元亀元年(1570年)に深沢城(御殿場市)攻略にな向か」ったところとある。柱の上はてっ辺が赤く、その下が白く塗られています。とても丁寧に描かれ、そして作られた案内板でした。
このあたりは「づな峠」とはなっていますが、平らな広がりを見せており、やはり火山灰が厚く堆積したところであるでしょう。道は黒々と、まだ新緑を見せていない林の中を、ゆるやかにカーブしながら続いていきます。
「ごんぐのベンチ」と書かれた案内板のところで、向こうから上がってきたご夫婦の方と出会いました。
普段着に近い服装をしていられたので、
「どちらから上がって来られたんですか」
と声を掛けると、
「三国峠に車を停めて、そこから歩いて来ました」
とのこと。
「まだ新緑は出ていませんね」
と言うと、
「あと1ヶ月ほど後でしょう」
とおじさんの方。
「どちらから」
と聞かれたので、
「神奈川から。明神峠の方から歩いてきました」
というと、
「じゃあ、けっこう歩いたでしょう」
このあたりのことをよくご存知のご夫婦のようでした。
今回の山行で出会って話を交わしたのは、結局、このご夫婦2人だけでした。
「ごんぐのベンチ」の案内板も、先ほどの案内板と同じ人の作品だと思われました。「ごんぐ」とは「欣求浄土(ごんぐじょうど)」の「ごんぐ」であるようです。
ギボウシが群生しているのを眺めながら歩くこと15分ほど、今度は目が覚めるほど美しいというか可愛いというか、大きな案内板が現れました。これも今までの案内板の作者と同じ人が作ったもののようです。こんなに丁寧で可愛いらしく、情報が満載の、見ていて楽しい案内板には、山中ではまず出合ったことがありません。
その案内板の左端には、「世附峠 不老山」と書かれ、右端には「篭坂峠」と書かれています。右上には白雪をかぶった富士山が突き出ており、今まで歩いて来た稜線が……で記されています。シロヤシオやサンショウバラ、ウギの花なども美しく描かれており、また中・高校生向けのクイズも載っています。
また「現在地から上の…のルートで不老山を越えてスルガオヤマ駅に至る距離は19.2km。中高年女性の足で6時間20分(含む、小、大休止)(81才老爺の足で計ったもの)」とあったから、これらの一連の案内板の作者は、どうも81歳を超えるおじいさんのようであるらしい。その方は、この現在地から駿河小山駅までをその年齢で歩いている人でもあるのです。
この案内板に出合った嬉しさで、その案内板を何枚かの写真におさめました(8:01)。
それからまもなく、同じ作者のものと思われる、「自然環境保全特別地区 一木一草もたいせつに!」と記された看板。その看板の場合、富士山は左上に突き出していました。
大洞山の頂上に着いたのは、その看板を見てから15分ほど後。
「大洞山頂 標高1383.5m」「籠坂峠大人70分 三国山ハイキングコース 三国山大人55分」と記された道標が立っていました。なんと、この大洞山は三国山よりも標高が高かったのです。
ここ大洞山頂まで来て、予定を変更して籠坂峠までこのまま歩いて、下の道から明神峠まで戻ろうか、それともここからもと来た道を明神峠近くまで戻ろうかと、少しばかり思案しましたが、上野から明神峠付近まで舗装道路を上がっていくのはちょっときついだろうなと思って、結局ここからもと来た道を戻ることにしました。逆方向を見て行くという楽しみもあるわけなので。
この判断が実は正しかった(良かった)ことを、私は後で知ることになりました。
続く
○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)
・『富士山宝永大爆発』永原慶ニ(集英社新書/集英社)