鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その3

2008-01-30 06:01:14 | Weblog
 ここの石畳道は250mほどとそれほど長くはありませんが、やはりインパクトがありました。ここを多くの旅人が行き交ったのです。敷かれている石はかならずしも扁平ではなく、舗装道を歩き慣れているものにとって、しかも登山靴を履いているものにとって、けして歩きやすいというものではないが、踏み下ろしやすい石をさがして歩いていくという楽しみがある。草鞋で歩くと足の裏の指圧にもなったことでしょう。まわりの景色を見ながらのんびりと歩くというわけにはいかない。足元をきちんと見て歩かなければならない。

 右手に曹洞宗大慈悲山箱根観音福寿院。舗装道に出ると右下は崖となっていて川が流れている。「ホテル南風荘」や「おかだ」といった大きなホテルの建物が見える。

 やがて右手に「天山湯治郷」の看板。バス停は「奥湯本入口」。ここの「天山野天風呂」は、かつて若い時に職場の同僚とよく来たところ。

 「やすらぎ会館」手前を右に入ったところにあったベンチに座って休憩と朝食。おにぎり2個をほおばる(9:42)。

 左手の箱根町消防団第3分団第一部・須雲川公民館の手前に「須雲川」の小さな案内板。それによるとこの須雲川の集落は、昔は川端とも呼ばれていたとのこと。江戸の初め寛永の頃に集落が出来る。箱根道には、そこを往来する人々のため、また道を維持管理するために、一定の間隔を置いて集落を作ったということで、須雲川はその一つということになる。

 右手に、川越しに「須雲山荘バンガロー」。小さなやや古びたバンガローが30ほども密集している。真冬だから人気(ひとけ)はまったくなく静まり返っています。

 左手に鎖雲寺。早雲寺や正眼寺と同じく臨済宗大徳寺派。

 左手に公衆トイレがあり、その先に「須雲川自然探勝歩道 畑宿1700米(メートル) 元箱根6200米」と書かれた案内板。

 旧街道とは外れるようですが、この道を行くことに。

 階段のあるよく整備された山道を進むと突き当たりは「東京電力三枚橋発電所沈砂池」。この歩道の周辺は東京電力の所有地のようです。その手前で右折。川(須雲川)に架かる木橋3本を渡って対岸へ。坂道を上がるとバス停「発電所前」に出ました。この発電所というのは、東京電力株式会社畑宿発電所のこと。

 出た舗装道を左折してすぐの右手に、「割石坂」の案内板と「須雲川自然探勝道(1部旧東海道) 畑宿1000米 奥湯本4000米」の案内板。

 また右手に「これより江戸時代の石畳」の標示がありました(10:32)。

 案内板には「この付近の石畳は江戸時代のものを、明治・大正時代に元の須雲川小学校の通学路として一部補修したもの」とありました。かつては小学校の生徒が通った道でもあったのです。旧東海道といってもまったく昔のままというわけではないことに気付かされました。

 さらに「箱根路のうつりかわり」という案内板もありました。碓氷道・足柄道・湯坂道・旧東海道・国道1号線が紹介されている。碓氷道というのは、箱根でもっとも古い峠道で、関本⇒明神ヶ岳→碓氷峠→乙女峠→御殿場のルート。足柄道は、奈良・平安時代のもので国府津→関本→矢倉沢→足柄山→御殿場のルート。湯坂道は、鎌倉・室町時代に開かれた道で、湯本→湯坂山→芦の湯→元箱根のコース。

 この案内板の前には白い湯気を立ててお湯が垂れ流しになっている。温度は50℃ほどか。音を立てて水路に流れ込んでいる。温泉好きとしてはもったいないことこの上ない。

 右手に「接待茶屋」の案内板。ともかくこの旧街道には案内板がたくさん立っている。この接待茶屋というのは、箱根権現の別当である如実というものが、旅人に湯茶を与え、馬に飼葉を与えるために設けたもの。たいへんありがたがれていたものの運営に行き詰まるが、後に再興されます。施行所(せぎょうしょ)として畑宿と須雲川に設けようとしましたが二つの集落とも立場(たてば)であっために許されず、東坂はこの割石坂の辺りに、西坂の場合は施行平に設置された、とのことでした。

 左に大きくカーブする「大沢カーブ」を曲がると、右手に「箱根寄木細工の里」の道標がありました。


 続く


○参考文献
・『脱藩大名の戊辰戦争』中村彰彦(中公新書)

 ネット
・「林忠崇の戦い」


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