鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その2

2008-01-29 06:26:38 | Weblog
 「ヒメハルゼミとその棲息地」という案内板によると、ヒメハルゼミの分布の北限は新潟県能生(のふ)・茨城県片庭・千葉県八幡山(やはたやま)。ここでは国指定の天然記念物になっているとのこと。ヒメハルゼミは七月中に出現し、シイの梢に群集。一匹が「ジリジリ」と鳴きだすと、他のセミがこれに合わせて、「あたかもモーターの唸(うな)るがごとき音」になり、数分にして合奏がピタリと止む。そして再び十数分後に音頭取りが鳴いて大合奏が始まるのだという。そのため地元の人は、このヒメハルゼミを「勤行ゼミ」とも言うらしい。集団での「勤行」に似ているからです。

 この説明文を読んで、7月にここに来て、ぜひヒメハルゼミの合奏を聴いてみたいと思いました。

 ここはもう早雲寺の境内。寺の正式名称は「早雲禅寺」。臨済宗大徳寺派別格地。大永元年(1521年)、北條早雲の遺命によりその子氏綱が建立。それ以来北條氏一門の香火所であるという。

 右手の旧街道に面したところ、少し入ったところに惣門(薬医門)。左手に本堂。現本堂は寛政年間に建立されたもの。もとは茅葺きでした。

 本堂の前を西に進むと、右手に連歌師宗祇(飯尾宗祇・1421~1502)の墓。宗祇は文禄2年7月30日に湯本で客死。弟子たちがその遺骸をかついで箱根山を越え、富士山の裾野の桃園にあった定輪寺に埋葬。ということでこの墓は実は供養塔ということになる。案内に「西行、芭蕉と並んで日本を代表する『漂泊の詩人』の一人」とありました。

 その宗祇の供養塔の右奥に、福住家の墓地がありました。福住家の墓地はここにあったのです。

 中央に「贈従五位 故 福住正兄  特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正十三年二月十一日 宮内省」とあり、「福住正兄翁墓」「福住歌子刀自墓」と刻まれていました。

 宗祇の供養塔の左側の石段を上がると、そこが「史跡北條五代の墓」でした。

 右から、初代早雲(伊勢新九郎長氏)、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直の墓が並んでいます。墓前には白・黄・うす紫の菊が供えられており、また茶と白のお猪口がそれぞれ一つずつ供えられていました。

 案内板によると、天正18年(1590年)7月5日、小田原城の北條氏は秀吉に降伏。11日、氏政と氏照は切腹を命じられ、氏直は高野山に追放されました。その氏直も翌年11月4日に追放先の高野山で死去。

 伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大坂河内狭山に約1万石を許され「狭山北條氏」として存続。また鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩冨に1万石を与えられ「玉縄北條氏」として存続。それらの北條氏の家系は江戸時代を通じて存続したとのこと。

 この早雲寺にある北條五代の墓は、寛文12年(1672年)の8月15日に、狭山北條家五代当主の氏治によって「早雲公」の命日に竣工されたものでした。

 境内には県指定重要文化財の梵鐘の架かる鐘楼もありました。元徳2年(1330年)鋳造という古いもの。秀吉が、「小田原攻め」の時に石垣山一夜城で使用したものだという。

 湯本小学校を左手に見て、旧街道に出て右折(8:39)。ここは前回立ち寄った白山神社のちょうど前で、バス停「早雲公園前」がありました。

 「湯本中宿」バス停を通過。前回、暗くなってきたためにここで右折し、滝通り温泉郷へ向かったところです。

 左手に「厄除石垣神社由来」の案内板。秀吉が「小田原攻め」の本陣を早雲寺に置いたとき、ここがちょうど鬼門にあたるためこの神社を新設したのだとのこと。

 同じく左手に臨済宗大徳寺派正眼禅寺。この寺を再興したのは江戸初期から中期にかけて江戸屈指の材木問屋(深川)として活躍した冬木屋(上田家)。その上田家の墓があり、初代直次(妻しな)は、尾形光琳(こうりん)やその弟乾山(けんざん)とも親交があったという。乾山については先日テレビで放映されているのを観たことがあり、光琳とともに強い関心を持っていたので、思わぬ出会いを感じました。

 左手に「箱根の湯」を見て「台の茶屋」バス停を過ぎ、猿沢橋を渡ると、右手に「史跡箱根旧街道」と刻まれた古い石碑があり、そこを右折すると旧街道の石畳道に出ました。その道が右手に続いているのでどこから続いているのか戻っていくと、しばらくして先ほどの通りに出ました。ちょうど「ラーメン・ギョーザ新茶屋」の前。湯本方面から来た場合、その「新茶屋」の前、「山紫園」入口を右手に入っていくことになる。入って左手に電柱があり、その下に案内板がありました。これではちょっと目に付かない。

 「国指定史跡 箱根旧街道入口」とありました。延宝8年(1680年)、旧街道に石を敷いたとのことで、この先約255mがその面影を残しており、国の史跡に指定されたと書いてありました。

 「山紫園」前からその石畳道が始まりました。


 続く


○参考文献
・『戊辰戦争 敗者の明治維新』佐々木克(中公新書)
・『脱藩大名の戊辰戦争』中村彰彦(中公新書)
・『小田原市史 通史編 近世』(小田原市)


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