気球の球皮は和紙で出来ていましたが、この和紙の原料は楮(こうぞ)でした。要求される和紙の質からいって、原料は100%楮でなくてはいけませんでした。この楮の生産に余力があったのは高知県でした。この高知県の楮が気球紙用に全国の和紙生産地に配給されました。
楮の黒皮を取り除く作業を「皮へぐり」と言いますが、高知市や高岡・伊野・佐川などにおいては銃後の婦人や女学生、さらに遊郭の女性などもその作業に従事しました。
高知県で「皮へぐり」された楮が配給された和紙生産地は、地元高知(土佐和紙)はもちろんのこととして、鳥取(因州和紙)・岐阜(美濃和紙)・石川(金沢和紙)・福井(越前和紙)・愛媛(伊予和紙)などでした。櫻井誠子さんの『風船爆弾秘話』によると、福井市花堂(はなんどう)町の酒井通信工業株式会社の精練工場では、小浜高女の4、5年生が動員されて気球和紙の製作にあたり、また神奈川の小田原製紙工場では小田原周辺の家庭婦人や小田原高女の女学生が気球和紙の生産にあたり、また女学校の体育館が作業場であったいいう。
こんにゃく糊の原料であるこんにゃくは、群馬県の甘楽(かんら)郡下仁田町や利根郡の昭和村などが中心でした。
和紙とこんにゃく糊を使って気球を製作したのは、1944年(昭和19年)8月の「女子挺身勤労令」「学徒勤労令」により動員された女学生たちでした。
東京では、数寄屋橋の日本劇場・日比谷の東京宝塚劇場と有楽座・浅草国際劇場・両国国技館・大田区の松竹キネマ撮影場・国立の東京商科大学の兼松講堂など。ほかにも小倉・名古屋・大阪の各造兵廠、相模原の相模造兵廠(ここは戦車の製造を専門としていた)などでも作られていたようです。
全国各地で作られた10m気球は、折り畳まれて頑丈な木箱に入れられ貨物列車とトラックにより放球基地である勿来(福島)・一宮(千葉)・大津(茨城)に運ばれました。大津の場合、常磐線の貨物列車で大津港駅に運ばれ、そこからトラックで長浜海岸の基地内に運び込まれたでしょう。
飛び上がった気球の高度を維持するためには「高度保持装置」(30個の砂の入ったバラストのいくつかを自動的に落下させ、気球の高度を保つ装置)というものが必要でした。これがなければ気球は途中でジェット気流から外れて太平洋上に落下してしまい、当然のこととしてアメリカ本土には到達することができない。
これを組み立てていたのも女学生でした。このことについて詳しく記してあるのが、櫻井誠子さんの『風船爆弾秘話』(光人社)。
この「高度保持装置」はわずか100グラムの小さなもの。
これを組み立てていた場所は、川崎にあった東京芝浦電気の富士見町工場。この工場の片隅の建物の2階にあった「調整室」と呼ばれる奥まった部屋では、製造された「高度保持装置」の検査を10名足らずの女学生がおこなっていました。
この東京芝浦電気の富士見町工場に動員されていた学生は、東京高等工業専門学校と蔵前工業専門学校の男子生徒と、山形城北女子商業の4年生、それに神奈川の共立女学校(現「横浜共立学園」)の3年生。共立女学校の3年生は全員東京芝浦電気の富士見町工場に動員され、「高度保持装置」の製造や検査に従事していたのです。
共立女学校の3年生およそ200名は、毎朝川崎駅近くの小宮デパート前に集合し、7:20に工場まで隊列を組んで行進。工場で「高度保持装置」の組み立てや検査(10名ほど)に従事(へちま襟の女学生服のままで頭には鉢巻をしていた)し、17:30に小宮デパート前で解散しました。
1944年(昭和19年)10月23~25日のレイテ沖海戦で日本海軍が潰滅するのと軌を一にして、東條英機の後任である参謀総長梅津美治郎は、井上茂連隊長に「ふ号」攻撃命令を下しました(10月25日)。「米国内部撹乱等」を目的とするものでした。
攻撃開始予定日は11月3日(明治節の日)。
「帝国領土並(ならび)ニ『ソ』領ヘ落下ヲ防止」し「黎明薄暮及夜間ニ実施」せよとの指示がなされました。
続く
○参考文献
・『銀幕の東京 映画でよみがえる昭和』川本三郎(中公新書)
・『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』吉野興一(朝日新聞社)
・『風船爆弾秘話』櫻井誠子(光人社)
楮の黒皮を取り除く作業を「皮へぐり」と言いますが、高知市や高岡・伊野・佐川などにおいては銃後の婦人や女学生、さらに遊郭の女性などもその作業に従事しました。
高知県で「皮へぐり」された楮が配給された和紙生産地は、地元高知(土佐和紙)はもちろんのこととして、鳥取(因州和紙)・岐阜(美濃和紙)・石川(金沢和紙)・福井(越前和紙)・愛媛(伊予和紙)などでした。櫻井誠子さんの『風船爆弾秘話』によると、福井市花堂(はなんどう)町の酒井通信工業株式会社の精練工場では、小浜高女の4、5年生が動員されて気球和紙の製作にあたり、また神奈川の小田原製紙工場では小田原周辺の家庭婦人や小田原高女の女学生が気球和紙の生産にあたり、また女学校の体育館が作業場であったいいう。
こんにゃく糊の原料であるこんにゃくは、群馬県の甘楽(かんら)郡下仁田町や利根郡の昭和村などが中心でした。
和紙とこんにゃく糊を使って気球を製作したのは、1944年(昭和19年)8月の「女子挺身勤労令」「学徒勤労令」により動員された女学生たちでした。
東京では、数寄屋橋の日本劇場・日比谷の東京宝塚劇場と有楽座・浅草国際劇場・両国国技館・大田区の松竹キネマ撮影場・国立の東京商科大学の兼松講堂など。ほかにも小倉・名古屋・大阪の各造兵廠、相模原の相模造兵廠(ここは戦車の製造を専門としていた)などでも作られていたようです。
全国各地で作られた10m気球は、折り畳まれて頑丈な木箱に入れられ貨物列車とトラックにより放球基地である勿来(福島)・一宮(千葉)・大津(茨城)に運ばれました。大津の場合、常磐線の貨物列車で大津港駅に運ばれ、そこからトラックで長浜海岸の基地内に運び込まれたでしょう。
飛び上がった気球の高度を維持するためには「高度保持装置」(30個の砂の入ったバラストのいくつかを自動的に落下させ、気球の高度を保つ装置)というものが必要でした。これがなければ気球は途中でジェット気流から外れて太平洋上に落下してしまい、当然のこととしてアメリカ本土には到達することができない。
これを組み立てていたのも女学生でした。このことについて詳しく記してあるのが、櫻井誠子さんの『風船爆弾秘話』(光人社)。
この「高度保持装置」はわずか100グラムの小さなもの。
これを組み立てていた場所は、川崎にあった東京芝浦電気の富士見町工場。この工場の片隅の建物の2階にあった「調整室」と呼ばれる奥まった部屋では、製造された「高度保持装置」の検査を10名足らずの女学生がおこなっていました。
この東京芝浦電気の富士見町工場に動員されていた学生は、東京高等工業専門学校と蔵前工業専門学校の男子生徒と、山形城北女子商業の4年生、それに神奈川の共立女学校(現「横浜共立学園」)の3年生。共立女学校の3年生は全員東京芝浦電気の富士見町工場に動員され、「高度保持装置」の製造や検査に従事していたのです。
共立女学校の3年生およそ200名は、毎朝川崎駅近くの小宮デパート前に集合し、7:20に工場まで隊列を組んで行進。工場で「高度保持装置」の組み立てや検査(10名ほど)に従事(へちま襟の女学生服のままで頭には鉢巻をしていた)し、17:30に小宮デパート前で解散しました。
1944年(昭和19年)10月23~25日のレイテ沖海戦で日本海軍が潰滅するのと軌を一にして、東條英機の後任である参謀総長梅津美治郎は、井上茂連隊長に「ふ号」攻撃命令を下しました(10月25日)。「米国内部撹乱等」を目的とするものでした。
攻撃開始予定日は11月3日(明治節の日)。
「帝国領土並(ならび)ニ『ソ』領ヘ落下ヲ防止」し「黎明薄暮及夜間ニ実施」せよとの指示がなされました。
続く
○参考文献
・『銀幕の東京 映画でよみがえる昭和』川本三郎(中公新書)
・『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』吉野興一(朝日新聞社)
・『風船爆弾秘話』櫻井誠子(光人社)
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