鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その1」

2008-01-09 06:29:45 | Weblog
 翌朝、まだ暗いうちに「山城屋旅館」を出て(もちろん支払いは前夜のうちに済ませました)、風情のある「備前堀」沿いの歩道を歩いて「柳堤橋(りゅうていばし)」(ここが桜川から備前堀が分かれるところで、備前堀についての案内板があります)のたもとに至った時、「道をお探しですか」と声を掛けられました。

 その人は、早朝ウォーキングをしている地元の中年男性でした。

 「俺が小さい頃まで、本町には電車が走っていました。水戸駅から浜田町の辺りを通っていた」

 「へえ、そうなんですか。私は初めて水戸を訪れたんですが、備前堀とかお城とか、昔の風情が残っていますね」

 「残っていますか?」

 「残ってますよ」

 「水戸は昔は栄えていたけれど今はね~。商業都市だけど『殿様商売』だから、大阪商人などがめついところには負けてしまう」

 「日立はどうですか」

 「あそこはしばらく沈滞していたけど最近は盛り返したから」

 「水戸には、偕楽園や弘道館以外に見どころはありますか」

 「人それぞれだけど、俺は偕楽園より八幡公園の方がいい」

 「常磐共有墓地の近くですか」

 「いや、あそこより少し手前のところにある公園です。これからどちらへ?」

 「勝田駅まで行って、那珂湊へ行きます」

 「あそこの鉄道は厳しいようだ。今はみんな車を利用するから。バスは大洗方面からあるけれど、勝田駅からは少ないね」

 そういった会話をしながら桜川の土手道を一緒に歩き、途中で別れて6:03に水戸駅南口に到着。6:10の水戸駅発原ノ町行きの普通に乗る。乗客は車両に私1人だけ。勝田駅到着6:15。6:18、阿字ヶ浦行きの「茨城交通線」のディーゼルカー(1両編成)に飛び乗る。

 車内はディーゼル機関の音とディーゼル車特有のあの懐かしい匂いが充満している。薄明の家並みの間を走り始めました。車内には私ともう1人だけ。その「1人」の方は、三脚を含めたカメラ器材を持つ30代の男性で、途中、「中根」という田んぼの真ん中のような小さな駅で下りました。おそらく鉄道写真を撮るのでしょう。

 運転室の脇の窓から見える前方の空は茜色(あかねいろ)で、左側の窓から見える上空は藍色。左手は一面白い帯のようになっていて、大きな川が流れているのかな、と思ったらそれは川ではなく、田んぼに薄く、霧が帯のように広がっていたのです。

 田んぼの上には朝霧が立ち込め(前方は茜色、上空は藍色)、その中を真っ直ぐにディーゼルカーが音をたてながら走っていくのです。幻想的な光景でした。

 6:30、那珂湊駅に到着。

 駅を出て左手、駅前広場に面して「みなとの散歩道」マップ。

 山上(さんじょう)門・反射炉跡・文武館跡・湊公園・イ賓閣跡・ふるさと懐古館・おさかな市場などの所在地を確認。

 駅舎の前には、「のってのこそう!! 未来へ走れおらが湊線  湊鉄道対策協議会・おらが湊鉄道応援団」という幟(のぼり)が立っていました。ディーゼルカーも駅舎も、かつては多くの人々が利用した、たくさんのさまざまな思い出の詰まったものなのです。

 通りを渡って真っ直ぐ進むと、右手に勇稲荷神社、左手に黒板張りの蔵。県立那珂湊第一高等学校の歩行路である坂道を上がって、突き当たりを右折。高校の右脇の道を歩いていくと、やがて左手前方に反射炉が見えてきました。高校と隣り合わせの一角に反射炉はありました。

 「茨城県指定史跡 那珂湊反射炉跡」と書かれた案内板がありました。それによると、この辺りの丘陵は吾妻台と呼ばれる台地。反射炉は、南部藩士大島総左衛門・薩摩藩士竹下清右衛門・三春藩士熊田嘉門の指導により造られたとのこと。棟梁は小川町(現「栄町」)の飛田与七。使用された耐火煉瓦は約4000枚。

 「反射炉実際図」が載っていますが、それを見ると、壁は煉瓦(復元された現在のものはコンクリートであるためかなり印象が異なる)で覆われ、どろどろに赤く融けた鉄を流す樋のようなものが下部に突き出ていて、そこから融けた鉄が鋳型に流れ込むようになっている。

 図をよく見てみると、反射炉の前部は深く掘られていて、そこに鋳型があって樋から流れ出てくる鉄を流し込めるようになっています。また9人の人夫が大砲を乗せた車を押したり引っ張ったりしていますが、その大砲は反射炉の前に置かれている長さ3mほどの大砲(鉄製のモルチール砲)と同じもの。

 この反射炉は、しかし「元治甲子(げんじかっし)の乱」(1864年)で破壊されてしまいました。したがって現在の反射炉は、昭和12年(1937年)に地元の有志らによって再建されたもので、昔のままのものではない。

 高校の裏門近くに、これも復元された「レンガ焼成窯」がありました。これは名人といわれた瓦職人福井仙吉の製陶技術と建設関係者の苦心の末に製造されたもので、約1200℃~1600℃の高熱にも耐えられる、現代の耐火レンガに近いものがここで作られました。水戸藩領であった現在の栃木県馬頭町小砂の陶土と水戸笠原の粘土、久慈郡のヒウチ石の原料などを使ったとのこと。

 反射炉のある丘からは、西方に、那珂川と朱色の橋(「湊大橋」)が見えました。

 「茨城県指定史跡 那珂湊反射炉跡 平成十八年一月十六日設置 茨城県教育委員会 ひたちなか市」と刻まれた新しい石碑が立っていましたが、指定を受けたのが「平成十六年十一月二十五日」と比較的最近であるのが意外でした。やはり「跡」だったからでしょうか。貴重な遺跡であるはずなのに、意外な感は拭(ぬぐ)えません。

 左手の階段を下りると「山上門(さんじょうもん)」がありました。それを潜って下りたところが駐車場。そこに「反射炉跡 山上門案内図」と「山上門 ひたちなか市指定建造物」の看板。この辺りは「あづまが丘公園」というようです。

 この「山上門」は、もと水戸藩江戸小石川邸正門の右側の門で、勅使奉迎のために特別に設けられた門。今日残存する、小石川藩邸の唯一の建築物であるという。「山上門」と言われるのは、後に小石川邸の山上に移築されたことによるらしい。

 佐久間象山・横井小楠・西郷隆盛・江川英龍・橋本左内らがこの門を潜り、小石川邸に出入りしたと言われるとのこと。

 門の形式は「薬医門」というもので、本柱と控柱を結ぶ梁(はり)の中間に束を置き切妻屋根を乗せた門のことで、江戸時代後期の典型的な屋敷門だという。

 昭和11年(1936年)、那珂湊出身の深作貞治氏が、当時の陸軍省より払い下げを受けて当地に移築・保存したもので、昭和32年(1957年)に那珂湊市に寄贈されたもの。

 横井小楠や西郷隆盛、江川英龍、橋本左内らが潜ったというその門を、私も何回か潜って出入りしてみました。

 駐車場の左手の道を那珂川の方へ。

 中年の男性が、

 「早いですね」

 と挨拶。

 「今日は富士山が見えるかも」

 階段の上に立っているその男性を見かけたので、

 「見えましたか」

 と声を掛けると、

 「見えない」

 とのこと。

 大気が澄み切っていれば、ここから富士山が見えるのです。ということは、昔も反射炉からは富士山が見えたということ。

 やがて、那珂川べりの通りに出ました。


 続く


○参考文献
・『茨城県史 近世編』
・『水戸学と明治維新』吉田俊純(吉川弘文館)
・『茨城県の歴史』(山川出版社)
・『茨城の史跡は語る』茨城地方史研究会(茨城新聞社)


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