素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

およそ40年ぶりに六代目三遊亭圓窓をテレビで

2013年08月04日 | 日記
ジムでよく一緒になるHさんが生駒山のコースを教えてほしいと言ったので今日の午前中に一緒に走ることにした。9時30分に待ち合わせをして私の車で生駒山麓公園へ。日曜日なので走りやハイキングの人が多い。道の路側帯は車でいっぱいだった。

 Hさんの方が私より速いので最初の2kmだけ私がペースメーカーとなり後はHさんに引っ張ってもらった。吹く風が心地よく、熱がこもっていないので「気持ちがいいですね」と喜んでいた。「だいたいの感じがつかめたら自分のペースで行って下さい」とお願いした。ついて行く方が楽である。おかげで前回より11分余り短縮して1時間17分08秒で12kmを走り切ることができた。

 常連のランナーの方にうかがうと、ぬかた園地を抜けてなるかわ園地までの9kmを往復する人が多いとのこと。是非今度はチャレンジして下さいとのこと。

 ちょうど12時に帰宅できた。昼食後はさすがに動く気にはならない。新聞や本を読んだり余禄を書き写したりを昼寝を入れながら気ままにしていた。テレビ欄を何気なく見てるとEテレ14時からの『日本の話芸』に目が留まった。演者が三遊亭圓窓とある。以前にもブログで何度かふれたが圓窓師匠は私にとって特別な存在である。

 私が生の本格的な落語を聞いたのが圓窓師匠である。1969年に六代目三遊亭圓窓を襲名し、その4年後の1973年、33歳の時に一念発起して名古屋の含笑寺で「圓窓五百噺を聴く会」を始めたのである。その第1回を聞きに言ったのである。その時の宣言は大法螺に思えた。

宣言!
私は自分の寿命を六〇前後と踏んだ。
一席物として演れる噺は五百あるとみた。
そこで、隔月に三席ずつ、二七年一〇ヶ月かけて、
五百の噺を稽古しよう。
達成後、まだ寿命があったら
すべてのものに感謝して
また、なにか、やろう
この会は人に自慢するためではなく、
己れに鞭を打つことを目的とする。

           (昭和四八)年三月一三日
第一回 圓窓五百噺を聴く会(名古屋・含笑寺)の高座にて。


 昭和49年に大学を卒業して大阪へ移るまでの1年弱、隔月含笑寺に通った。その後、圓窓師匠とは縁遠くなっていたが2001年3月9日に28年かけてゴールしたことを知り胸にジ~ンとくるものがあった。私の「継続する力」の源の1つであることはまちがいない。その間またその後も自分自身の精進のみならず落語の普及に励んだ。そのあたりのことは公式ホームページ

圓窓落語大百科事典「だくだく」を見るとよくわかる。

あれから40年、73歳になられた師匠の噺をテレビを通じて聞かせてもらった。珍しい演目で『指相撲』。久々に40年の歳月というものを思った。
    師匠も歳をとったが私も同じ。年の差11はいつまでも変わらない。負けてられないなと10年後の自分を考えたりもした。 
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