某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

「棒の如きもの」再論

2010-01-01 12:25:51 | ぼやき
 前稿「棒の如きもの」について最初に書くべきことをカットしてしまった。
 高島先生があの句を好いておられたのは、「貫く棒」を不動心と解されていたからだと思う。研究者の場合テーマや関心は様々だ。しかし、そこには一貫した不動心が無ければならない。先生のように厳しい戦中体験をお持ちの方には、あの1945年夏を境にして豹変した多くの同僚、研究者仲間を許すことは困難だったろう。内面に塊のように溜まっていた批判が、1951年にこの句に出会って これだ! となった。丁度私たちが学部から大学院とゼミナールでご指導いただいた時期と重なる。先生に確かめたことはないが、この句を口にされる時の気迫でそれを感じていた。
 まずこれを書いて、それから、それぞれが不動心をもって追い求めているものは何かを考えるべきだった。「拠るに小径によらず」か。
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去年(こぞ)今年(ことし)貫(つらぬ)く棒の如きもの  高浜虚子

2010-01-01 01:54:43 | ぼやき
 恩師高島善哉先生のお好きだった句。除夜の鐘を聞きながらこの句を思う、というのを一度やってみたかった。0時をはさんでブログをいじっていたお陰で、ヤット今それが実現した。
 貫く棒の如きもの、さて何だろう。先生にとっては多分ご自身のテーマ。民族・階級・国家。その現実の場としての風土、家族。支えとなり発展の原動力となる生産力。まとめて言えば市民社会の生成と発展。まさに棒のごとく太くたくましい難物。
 大岡信はこの「貫く棒の如きもの」を「去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理」と解したが、ちょっと言葉遊びのように思えて満足できない。中身がありそうに見えない。客観的に存在する巨大な何か、というだけだ。
 さて、私にとっては何だろう。生産力といえば間違いではないが何も言わぬに等しい。では、ブログかな、吹矢かな。いやちいせえ、ちいせえ。では、アイルランドの復活祭蜂起は正しい政治路線だったか、という前からの疑問は?太くたくましい、どころか、自分の宿題に矮小化しただけだな。
コメント (2)
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