恩師高島善哉先生のお好きだった句。除夜の鐘を聞きながらこの句を思う、というのを一度やってみたかった。0時をはさんでブログをいじっていたお陰で、ヤット今それが実現した。
貫く棒の如きもの、さて何だろう。先生にとっては多分ご自身のテーマ。民族・階級・国家。その現実の場としての風土、家族。支えとなり発展の原動力となる生産力。まとめて言えば市民社会の生成と発展。まさに棒のごとく太くたくましい難物。
大岡信はこの「貫く棒の如きもの」を「去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理」と解したが、ちょっと言葉遊びのように思えて満足できない。中身がありそうに見えない。客観的に存在する巨大な何か、というだけだ。
さて、私にとっては何だろう。生産力といえば間違いではないが何も言わぬに等しい。では、ブログかな、吹矢かな。いやちいせえ、ちいせえ。では、アイルランドの復活祭蜂起は正しい政治路線だったか、という前からの疑問は?太くたくましい、どころか、自分の宿題に矮小化しただけだな。
貫く棒の如きもの、さて何だろう。先生にとっては多分ご自身のテーマ。民族・階級・国家。その現実の場としての風土、家族。支えとなり発展の原動力となる生産力。まとめて言えば市民社会の生成と発展。まさに棒のごとく太くたくましい難物。
大岡信はこの「貫く棒の如きもの」を「去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理」と解したが、ちょっと言葉遊びのように思えて満足できない。中身がありそうに見えない。客観的に存在する巨大な何か、というだけだ。
さて、私にとっては何だろう。生産力といえば間違いではないが何も言わぬに等しい。では、ブログかな、吹矢かな。いやちいせえ、ちいせえ。では、アイルランドの復活祭蜂起は正しい政治路線だったか、という前からの疑問は?太くたくましい、どころか、自分の宿題に矮小化しただけだな。