サンフランシスコに向かう前に (続)

2012年12月06日 | Weblog
*日々の点描 オン・ボード そ の2
【12月2日・日曜 続き】

▼琵琶湖畔の高島市(滋賀県)に入り、講演会場の前で、タクシーをY秘書と降りようとすると、陸上自衛隊の将校が出迎えてくれた。
 この街には、戦車大隊がいる。第3師団と第10師団の精鋭だ。きょうは、その基地(今津駐屯地)の設立60周年と、「あいば野自衛隊協力会」40周年の記念すべき日に、招かれた。
 会場には、高島市の西川市長と、ふつうの市民も沢山いらっしゃる。自衛官は、婦人自衛官もとても多く、内心で応援エールを送る。
 自衛隊の司令は、独研(独立総合研究所)で研修を受けた自衛官が就任なさっている。凜々しく、そして、穏やかだ。
 いつものように舞台から飛び降りて、みなさんのなかを歩きながら、ぼくなりに懸命に話す。


▼前半は、やはり自衛隊のあり方をめぐることに、重点を置いた。
 たとえば、この総選挙で、野党第一党が「憲法を改正し自衛隊を国防軍にする」と公約した。
 それを見て、多くのマスメディアと、それから政治家が「自衛隊の名前を変えること」の是非を声高に語っている。
 名前を変える?
 名前を変えるために憲法を改正する?
 それが争点?

 まさか。


▼世界の主権国家の防衛力、軍事力に何があるか。
 それはネガティヴ・リストだ。
 将兵は、国民と国家を護るためには、いつでも何でもやらねばならない。制服を着用して任務に就いているときも、制服を脱いで休暇で故郷に帰っているときも。
 そのうえで「これだけはしてはならない」というリストを持っている。たとえば、もはや降伏して捕虜になった敵兵を傷つけたり、殺害してはならず、虐待も許されない。戦わざる市民や難民への攻撃も、できない。ジュネーヴ条約とその追加議定書にあるとおりだ。

 ところが、世界で自衛隊員だけが、これと真逆なものを持たされている。
 それはポジティヴ・リストだ。
 すなわち、「これだけは、してもいいよ」リストなのだ。
 防衛省設置法とか、自衛隊法とかに盛り込んである条項だけ、行うことができて、たとえばイラクに派遣された自衛隊員は、そのときだけ通用するイラク特措法がさらに加わって、そこにある条項だけ行うことができた。

 新潟の海岸近くで、13歳だった横田めぐみちゃんが北朝鮮の工作員に襲われているとき、休暇で帰っていた自衛官がたまたまその現場に遭遇したとする。
 もちろん、実際にはそうした自衛官の遭遇はなかったのだが、仮にそれがあったとして、自衛官が工作員を素手で倒し、めぐみちゃんを護り、めぐみちゃんは北朝鮮に拉致されることなく、その後も日本で中学高校、そして大学を卒業し、望んだ仕事に就き、幸せな結婚もし、子育てもしたとして、一方で北朝鮮工作員が倒れるときに、たまたま後頭部を打って死亡したとすると、自衛官は、少なくともいったんは殺人容疑で逮捕され、裁かれることになる。
 日本以外の諸国では、この自衛官はヒーローになるが、日本では、刑法犯である。
「休暇中でも、かつ防衛出動が閣議決定されていないときでも、自衛官は国民が危機にあれば国民を救う」ということが法に盛り込まれていないので、つまり「これだけは、してもいいよ」リストに載っていないから、救ってはならないのだ。
 この事実があるからこそ、北朝鮮の工作員たちは、やすやすと多くの日本国民を日本の領土内で拉致していったのだ。


▼また、たとえば自衛官がイラクの地でテロリストに向かい合い、テロリストがRPG7というロケット弾を発射しているさなかに、自衛官は「えーと、これは反撃して良かったんだっけ。やってもいいよリスト(ポジティヴ・リスト)に入っていたんだっけ?」と自問自答せねばならない。
 笑い話ではない。

 実際に、イラクに派遣された自衛隊の宿営地には、何度もロケット弾が撃ち込まれた。
 自衛官が死ななかったのは、偶然に過ぎないし、自衛官たちは、ロケット弾を撃ち込まれながら、反撃することを許されなかった。だから何度も撃ち込まれた。
 独研(独立総合研究所)は、自衛隊幹部学校から研修生を毎年、ふたり受け容れている。
 その研修経験者も、イラクに派遣された。
 ぼくは、彼らの出発前に、いったん、別れの水盃(みずさかずき)を交わした。
 上記のような恐ろしい真実があるからだ。

 ぼくは、敬愛する自衛官たちがイラクに入る前、すなわち戦闘下のイラクにひとりで入った。
 そして、この戦地に「ポジティヴ・リスト」、すなわち「してもいいと厳密に(いや、ほんとうは形式的に)指定されたことだけしかできない」というリストを背中に背負わされた自衛官を送り込むことの無茶ら苦茶らぶりに、寒気を覚えた。

 まったく非武装の民間人のぼくですら、イラク戦争で少なくとも三度、間近な死に直面した。
 自衛隊は武装している。テロリストも、諸国の軍も、まさか日本の将兵だけ、世界にただひとつの奇っ怪なリスト、現実離れした制約を背負っているとは夢にも思わない。普通の将兵と同じように見なして、攻撃もすれば、助けも求めるのだ。

 諸国の軍の、たとえば佐官といった高級将校や将軍のなかには、自衛隊の想像を絶する不可思議な実情を知っている人も、稀には、いる。
 しかし、前線の将兵は、そんなこと知りゃしない。
 ましてや、テロリストは、委細かまわず、攻撃してくる。


▼憲法を改正し、自衛隊を国防軍にするというのは、上記のような、あまりに愚かしいことを正して、日本の防衛力に国際法に基づく、正当そのものの権利を付与し、それによって、二度と自国民が北朝鮮の工作員ごときに拉致されて人生を奪われないようすることだ。
 名前を変えることじゃない。

 あるいは、自国の領土に韓国の大統領や警備隊という名の侵略兵や、自国の領海に中国の偽装漁船や公船という名の海軍偵察船やら、それやこれや無法の輩(やから)が不法に入ることを、もはや許さないということにも繋がっていく。

 マスメディアも政治家も、争点をすり替えるな。
 わたしたち有権者こそは、核心をそらさずに、真っ直ぐ考え、議論し、投票したい。

 ぼくは、かつて青年会議所(JC)の憲法セミナーで講演したあと、JCの諸君との懇親会で乾杯を頼まれたとき、思わず、「おれたちの憲法はおれたちで創ろう!乾杯」と叫んだ。
 青年たちは、どっと喝采し、口々に「そうだ!」と声をあげ、ぼくは日本国が前へ進む予感がして、こころの底から嬉しかった。
 こういう立場の有権者も、そして、現在の憲法を一字一句変えるなという立場の有権者も、「国防軍の公約」を機に、活き活きと議論したい。
 その機会を奪おうとする、すり替えは、最低だ。


▼…といった話をしてから、拉致事件をどうやって解決するかの問題提起や、メタンハイドレートをめぐる希望のことを話したりしているうちに、どんどん時間がなくなり、とうとう「この時刻に会場を出ないと、新幹線に間に合いません」とY秘書から言われていた時間を、過ぎてしまった。

 それでも、硫黄島の英霊のかたがたと、沖縄の白梅の少女たちのことも、たとえ一言二言でも話したかった。
 わずかながら、それにも触れて、ようやく講演を打ちきって、いや終えて、タクシーに飛び乗ったとき、Y秘書の口から「もう、どうせ間に合いません」という言葉が漏れた。


▼そして、以前にもこうやって新幹線に遅れたとき、どれほど、しんどい思いをして東京に帰ったかを、ふたりで思い出した。

 それでも運転手さんは、なんとか間に合わせようと最善の努力を尽くしてくれた。
 しかし、京都は紅葉の季節がまだ続き、日曜の道路は混んでいる。
 京都駅に着いたときは、ちょうど新幹線が発車した、その時刻だった。
 ぼくは足が速いけど、Y秘書も速い。ふたりとも、2分もあれば間に合ってみせると意気込んでいたから、がっくり。
 まぁしかし、駆け込み乗車はいけないしね。

 ぼくは前に、同じように講演を延長したために、名古屋駅で、新幹線のドアに挟まれたことがある。
 とっさに、おのれより、手に抱えていたモバイル・パソコンを護ろうとして手の甲を突っ張ったら、新幹線のドアの力は恐ろしいほどに強く、手の甲の骨が折れるかと思った。
 さすが、猛速で走る新幹線、素晴らしいドアだと感心したけど、すでに車内にいたY秘書は、ぼくが潰されるんじゃないかと本気で心配したようだった。
 もちろん、ぼくが悪い。幸い、ぼくは無事だった。

 そのY秘書は素早く、改札口の係員と交渉し、係員のすすめで、すぐあとの新幹線に飛び乗った。意外にすいていて、ふたりとも、ホッとした。
 Y秘書に「タクシーの運転手さんが責任を感じていたりしてはいけないから、すぐに、問題なく次の電車に乗れましたよと、電話してくれ」と言うと、彼女は、ぼくが言う前から良く分かっていたようだった。
 まだ24歳の若さだけど、苦労して育っているから、人の心が良く分かる。


▼都内の仕事部屋に帰り着くと、もう夜の10時を回っている。
 明日は、福岡のRKB毎日放送テレビの選挙特番の生放送に参加する。
 これも日帰り出張。
 先日からずっとずっと毎日、日帰り出張が続いている。
 すこし体を休めないと生放送のバトルで頭が回らないと思った。

 そのまえに、仕事部屋の洗濯ものを洗わなきゃ。
 それに、まもなくサンフランシスコへ出発し、資源や地球科学、宇宙をめぐる世界最大の学会、AGU(地球物理学連合)で口頭発表するのだから、寝ないで仕事するのなら、その準備を優先させなきゃ。
 しかし、まずは青山繁子、ポメラニアンの繁子ちゃんとすこし遊んであげなきゃ。

 先にシスコに出発した青山千春博士から、「出がけに繁子が、遠出に気づいて、泣き叫んだ」というEメールが届いていた。
 繁子は、ことし夏の暑さでいったん、すこし弱っていたけど、涼しくなってから、元気全開。9歳になっても、子供時代とおんなじだ。
 そこで、仕事部屋を出て、自宅に帰る。
 繁子が飛びついてきて、ものすごいぺろぺろ攻撃。
 しばらく一緒に遊んでから、モバイル・パソコンで、まずは、独研(独立総合研究所)が配信している会員制レポート「東京コンフィデンシャル・レポート」(TCR)の続きを執筆する。
 繁子は、ぼくの太ももに頭を預けて甘えている。


【12月3日月曜】

▼日付が変わって、次男が久しぶりに帰ってきた。
 美大を出て、いまはゲームの制作の仕事をしている彼は、たいへんに忙しい。けれども、今回も繁子の世話をする当番を引き受けてくれた。

 そこで、繁子を彼に預けて、未明の街を、仕事部屋に戻る。
 TCRの仕上げと、学会準備にかかろうとして、そのまえに郵便物をチェックする。

 その郵便物のなかに一冊の本が入っている。
 なんと、流通ジャーナリストの金子哲雄さんが、みずからの死への歩みを綴った本だ。
 金子さんの奥様が送ってくださった。
 この書は放っておけなかった。
 すぐに手に取り、読み始める。

(続く) *写真は、恐縮ながら、ぼくの足、パソコンのコード、そして繁子

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