小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

河野談話の作成過程の経緯が明らかになったのに、なぜ安倍総理は河野談話の再検証を拒むのか。②

2014-06-24 07:15:10 | Weblog
 朝日新聞が21,22日に実施した全国世論調査(電話)によると、安倍内閣の支持率が前回(5月)の49%から43%へ6ポイントも下落、第2次安倍内閣発足後最低となった。その原因は「集団的自衛権行使容認」への強硬姿勢にあるとみられる。河野談話の作成過程の検証を踏まえて、当時の慰安婦問題の実態はどうだったのか、河野談話にあるように、本当に慰安婦所の設置や管理あるいは慰安婦の集め方について軍当局が直接間接に関与し、かつ強制的なものだったのかという、当時の日本政府の植民地統治の国家姿勢の根幹にかかわる問題の検証を放棄したことに対する世論はこの調査には反映されていない。朝日新聞も今回の調査の焦点を集団的自衛権問題に絞ったようで、行使容認をめぐる国会での議論が「十分されている」と答えた人はわずか9%にすぎず、76%の人が「十分ではない」と答えたことからもそのことがうかがえる。
 それでも支持率が政権発足後1年半を経過したにもかかわらず比較的高い水準にとどまっているのは、確かな手ごたえは得られていなくても、なんとなくアベノミクスと称している安倍内閣の経済政策への期待感が、まだ失われていないことの表れと言えなくもない。が、アベノミクスが成功するかどうかの判断はまだ下せない。ニューヨークはリーマン景気に沸いた時期の株価水準を連日突破してアメリカ経済の見通しは悪くないようだが、日本はいぜんとしてバブル期の株価水準の半分にもほど遠い。日本経済の先行きはまだ不透明だ。

 内閣支持率の低下問題は別として、昨日のブログの続きに戻る。結論から言うと、「検討会」が行ったのは「河野談話の作成過程の検証」であり、それが当時の韓国・金泳三大統領の要請に日本政府が応じて「16本の枯れ木を見て」森全体が枯れているという政治的判断をしたのが河野談話であることが明らかになった。枯れ木が16本(とは限らないが)あったことの確認が、なぜ森全体の状態の証明になるのかという疑問は、以前から私も持っていた。閣議決定は経ていなかったと言うが、少なくとも宮沢総理は知っていたということだから(※官房長官は総理の女房役とされる内閣のスポークスマンである。その権限を逸脱したのは細川内閣の武村正義官房長官で、細川総理が唐突に消費税を廃止して国民福祉税を創設するという構想を発表した際、記者会見で真っ向から批判したケースくらいだろう)、宮沢総理も小学生並みの頭脳しか持っていなかったということになる。そんなことは実際問題としてあり得ないが…。
 結局、「検討会」の調査によって、河野談話は韓国の金大統領からの要請によって日本政府が慰安所設置の経緯と慰安婦に対する非人道的扱いについて「調
べた」ことにして、元慰安婦及び韓国に対して謝罪の談話を捏造するというこ
とがあらかじめ決まっていたこと、また談話の内容についても一字一句を韓国
側とすり合わせながら作成されたことが明らかになった。

 慰安婦問題が日韓関係ののど元に突き刺さったとげになったのは吉田清治が書いたねつ造「ノンフィクション」小説『私の戦争犯罪』(1983年、三一書房刊)に端を発している。吉田は軍の命令によって済州島で205人もの朝鮮女性を慰安婦として強制連行したと「告白」したのである。この「ノンフィクション」小説を高く評価したのが朝日新聞だった。当時の朝日新聞は日本の良識を代表する新聞と一般的には認識されており、朝日新聞が吉田を英雄視した記事を書いたのが韓国に伝わり、韓国でいっきに反日感情が盛り上がった。
 実は吉田の「ノンフィクション」小説が捏造だったことを暴露したのは済州島の地元新聞だった。済州島のような小さな島で、205人もの慰安婦狩りが行われたという話に、地元の人たちが疑問を持ち、済州新聞が裏付け調査したようだ。その結果、まったくの捏造であることが明らかになり、済州新聞は調査結果を紙面で公表、吉田も「創作」であることを認めたが、肝心の火を付けた朝日新聞が「火を消し忘れ」てしまった。済州新聞の検証記事は朝日新聞が無視しただけでなく、韓国国内でも無視された。また国連やアメリカも無視した。
 当時の韓国は、技術建国を目指しており、技術を教えてもらわなければならない「先生」である日本との関係を悪化させたくなかった。が、日本に支配されていた過去の「不幸な時代」に対する国民の記憶は、そう簡単には消えない。誤った形で慰安婦問題が韓国に伝えられたため、緊密な関係にあった日韓関係の先行きが不透明になってきた。その時点で日韓関係がぎくしゃくすると、「発展途上国」(当時の呼称)から脱皮して先進国への仲間入りを目指していた金政権にとって大きな障害になりかねない。金政権にとって、とりあえず国内の反日感情の火を消すことが最優先の政治的課題になったのである。
 はっきり言ってしまえば金大統領が宮沢内閣に頭を下げて「旧日本軍が悪行を働いたことにしてほしい」と願い出たのが、河野談話作成の真相だったのではないか。そう考えないと、16本の枯れ木を根拠に森全体が枯れ木で埋め尽くされているかのような検証談話を、いくらなんでも日本政府が自主的に出すことなどありえない。宮沢内閣は社会党や共産党の政権ではなく、自民党政権だからだ。当然、金大統領が日本政府に日韓関係の悪化を食い止めるために「談話作成」を宮沢内閣にお願いし、その代わり「談話を出しても慰安婦問題で日本に賠償請求などしない」と約束したのがそもそもの談話作成の出発点だったはずだ。
「検討会」はその後の談話作成の過程は実に丹念に検証し、河野洋平も韓国側も検証内容については全面的に認めている。が、自民党政権のピンチを救済したリリーフ総理の村山富市氏が、リリーフ役を引き受ける条件として出した「村山談話」は、抽象的な表現にとどまっており、その後の政権も無条件に支持を
表明してきた。安倍総理も「村山談話」については再検証しようなどとはつゆ
ほども考えたことがないはずだ。「村山談話」と「河野談話」の根本的な相違は、総理大臣という日本の最高政治責任者の発言と、内閣のスポークスマンである官房長官の発言という「重みの違い」ではない。「村山談話」は具体例には触れず、先の大戦で日本がアジアの人々や国に対して大きな苦痛を与えたという抽象的な表現にとどまっており、その範囲では自民党右派も否定しようがない内容だったからだ。が、「河野談話」は慰安婦問題について、韓国側が出した16人の元慰安婦への聞き取り調査だけで、旧日本軍が慰安所の設置、管理、募集、待遇に至るまで直接間接に関与し、非人道的な扱いをしたと、きわめて具体的に「事実関係」を「明らかに」して元慰安婦と韓国に謝罪している。「検討会」は談話の作成過程において韓国側と密に連絡を取り合いながら一字一句に至るまで韓国側とすり合わせながら談話の文章を作成したプロセスは明らかにしたが、そもそも宮沢内閣が唐突に慰安婦問題についての「自主的な」謝罪談話の作成を行うことにしたのかの、一番重要な要の検証をすっぽかしてしまった。そこまで気が回らなかったのか、それとも…。

 言いようによっては、当時の日本政府は金大統領のお願いに対して「大人の対応」をしたと言えなくもない。だが、その談話が、国際社会で今後どういう影響を持つことになるのか考えなかったのだろうか。実際談話発表の3年後の1996年には国連人権委員会のクマラスワミ報告や2007年の米下院121号決議でも、「旧日本軍の慰安婦狩り」が「歴史的事実」として明文化されてしまった。その際にも吉田の捏造「ノンフクション」が証拠として採用されている。が、日本政府は公式に河野談話を発表し、韓国に謝罪してしまった以上、そうした国際社会の「認定」に抗議することもできない。
 河野洋平は、「検討会」の検証結果を全面的に認めた。認めながら、「政治的配慮」を口実に依然として自己正当化している。私も金大統領のお願いを聞き入れた背景には様々な政治的配慮があったことは否定していない。が、その時点の政治的配慮が、今日の海外での日本に対する評価として定着してしまったことに、一片の責任も感じないのか。政治家と言う職業は、ずいぶん都合のいい職業だな、と今さらながら感心する。経済界だったら、不祥事が明らかになったら、その不祥事が発生する原因を作った過去の経営者までさかのぼって責任が問われる。そういう権力に伴うモラルが、政治の世界には必要ないということが、今回の事件で明白になった。それがせめてもの救いか。

 私は先の大戦における日本の侵略戦争を、あらゆる意味において肯定するものではない。だから、これから述べる当時の日本政府の植民地支配政策は、日本の軍国主義による侵略戦争を美化することが目的ではないことをあらかじめお断りしておく。勝手に一人歩きさせられては困るので…。
 日本社会には聖徳太子の「17条憲法」以降、「和をもって貴し(※尊しの誤りではないか?)となす」という「和」の精神が定着してきた。そのため、日本の植民地政策は、ヨーロッパ列強とは違い、同化政策をとってきた。教育も日本並みの制度を整え、京城や台北には日本の帝国大学と同等の資格をもつ帝国大学を作り、民度の向上を図ってきた。植民地国の教育制度を整備するということは、場合によっては両刃(もろは)の刃になりかねない。
 日本が植民地支配した国で教育制度を充実させた理由の一つに、日本産業近代化の担い手を養成するという目的があったことは私も否定しない。が、高度な教育を身に付けた人たちが反日運動を起こす可能性は当然、当時の政府も考慮の中に入っていたはずだ。実際世界中で生じた(現在も生じている)反権力(あるいは反体制)運動の指導者たちは、ほとんどすべて高度な教育を受けた人たちである。そうしたことを承知の上で、日本が支配下に置いた国で高度な教育制度を導入し、その国の将来のリーダーを育てようとしてきたことは、日本社会の精神的規範として根付いてきた「和」の精神が大きく働いた結果ではないかと私は考えている。
 民主化された現在でも汚職する官僚は跡を絶たないし、「警官を見たら泥棒と思え」とまで酷評された時期もあったくらいで、たとえ小さな権力でも、その権力には必ず誘惑の手が伸びる。先の大戦時の状況は、私には知る由もないが、誘惑に屈した小さな権力は間違いなくあったと思う。ただ召集されて一兵卒になった亡父の思い出話で聞いたことだが、父が配属された関東軍の部隊はものすごく規律が厳しく、現地人に対する暴力や強盗・強姦は厳しく禁止されていたようだ。そういうことも含めて、そろそろ「勝てば官軍、負けたら賊軍」「敗軍の将、兵を語らず」史観から脱皮して、先の大戦の真実をフェアに掘り返すべき時期ではないかと思う。過ちは過ちと認め、平和な国際社会の構築に日本はどういう貢献ができるのか、またすべきなのかを、いたずらに主義主張によって行うのではなく、国際社会から本当に評価され、尊敬されるような役割とは何かを、国民的議論を経て考えるべき時期だと思う。

 それはともかく、河野談話の「作成過程」の検証以上に問題なのは安倍総理の姿勢である。安倍総理は第1次政権のときから河野談話の見直しに前向きだった。ただ、今日の日韓関係は金大統領・宮沢内閣時代とは激変している。日本の技術に頼って経済発展を図っていた金時代と異なり、IT技術の根幹をなす半導体の研究・開発・生産の分野で日本は韓国に完全に逆転されている。アメリカの失敗から何も学ばなかった日本政府は、日本の半導体を含むエレクトロ
ニクス産業の空洞化の進行に何の手も打たなかった。
 その結果として、いま日本のエレクトロニクス産業は韓国の先端技術を借りないと、何も開発できないし、生産もできない状態になっている。たとえば、いま日本メーカーのテレビはほとんど中国製になっているが、肝心の心臓部のエレクトロニクス部品は韓国メーカーから買わざるを得ないのが現実だ。日本メーカーはいま4Kテレビで「テレビ王国」の復活を目指しているが、韓国から技術を買わないと研究開発もできないし、生産を国内はおろか中国で行うこともできないのだ。それが現在の偽らざる日韓経済関係の根っ子にある。
 朴大統領が対日強硬姿勢を前面に出しているのは、そうした「韓国なしには日本の産業界は生き残れない」という現実を背景にしていることを忘れてはいけない。また、アメリカ産業界も同様な状態にある。確かにパソコンやモバイル、携帯電話、スマートフォンなどのエレクトロニクス・メディアはアメリカが開発してきたが、実際に商品化するとなると、エレクトロニクス技術は韓国メーカーに「おんぶにだっこ」しなければ、にっちもさっちもいかないのが現実である。しかもアメリカの戦争に国民の血を流したことがない日本と、血を流してきた韓国と、アメリカにとってどっちが重要な同盟国か、と計算ずくの上での反日政策なのだ。だから朴大統領は日韓が対立したら、アメリカは韓国との関係のほうを重視すると、日米の足元を見透かしているのである。
 そうした日米韓の関係をまったく理解していない安倍総理が、河野談話の見直しを現時点で行おうとしたこと自体、政治的センスがゼロであることを自ら証明してしまったと言えなくもない。結局、安倍総理は河野談話の検証ではなく「河野談話の作成過程の検討」と姿勢をかなり後退させたが、作られた第三者の有識者会議である「検討会」は、本当に作成過程を完全に暴いてしまった。
 安倍総理は、検討会発足と同時にアメリカの猛烈な圧力に屈して「河野談話は継承する」と言ってしまった。それならそれで、「検討会もやめた。解散する」とすれば、二重の屈辱を味会わずに済んだのだが、そうすると総理の沽券にかかわるとでも思ったのか、検討会の「検証作業」を放置した。韓国も、安倍総理が「河野談話は継承する」と明言したことで、「検討会」がまさか外交上のトップ・シークレットに迫り、暴露してしまうとは予想もしていなかったのだろう。妙な言い方になるかもしれないが、セウォル号沈没事故の不手際で窮地に立たされた朴政権に、タナボタのようなプレゼントを差し上げてしまう結果になったのが、今回の「検討会」の報告書である。おそらく朴政府は、河野談話を事実上否定した報告書を材料にして「日本は信用できない国。信じ合える関係を作るのは無理」といったキャンペーンをはることで政権の危機を逃れようとする。韓国の野党がだらしなかった場合だが…。

 話題を変えるが、昨日、東京都議会で不適切ヤジを飛ばした議員が名乗り出た。彼は35歳の美人独身議員に「早く結婚したほうがいいんじゃないか」というヤジを飛ばしたようだ。ただ、この議員は「産めないのか」といったヤジについては否定している。自民党都議団としては、この議員が党派を離脱したことで幕引きにしたいようだが、これだけの大騒ぎになってしまうと、そうもいきそうにない。私自身は、自分が男性のためか、それほど大騒ぎするような話ではないと思っている。ただ大騒ぎになったことで、小さな町村議会まで含めて、人格を傷つけかねない不適切ヤジに対する議員たちの自制心が働くようになるだろうことは、せめてものプラスになったかなと思っている。
 ただ、都議会騒動で見逃されている、もっと重要な問題が二つある。
 一つは、この騒ぎの最大の責任者はだれか、という視点である。当り前のことだが、吉野利明議長の責任である。「早く結婚したほうがいいんじゃないか」というヤジが飛んだときは、女性議員はヤジを発した方向に顔を向け、ニコッと笑みを浮かべた。その後「産めないのか」といった卑劣なヤジが飛んだことで、女性議員の顔が一瞬で変わり、質問の口調も固く早口になり、とうとう涙声にまでなった。そのときに、なぜ吉野議長は毅然として議事の主導権を発揮しなかったのか。具体的には「いまのヤジを飛ばした人は起立してください」と直ちに発言者を特定し、女性議員への謝罪と議場からの退席を命じるべきだった。そういう感覚を、メディアが持たないことが、私には不思議でならない。
 二つ目の問題は、この事件が海外のメディアでかなり大きく取り上げられたことだ。「日本は女性蔑視の国」といった烙印を押されたようなものだ。これが国政の場である国会の本会議や予算委員会での事件なら海外で報道されても理解できないことはない。が、首都といっても地方自治体での小さな出来事である。本来、他国のメディアが飛びつくような話ではない。
 逆の立場から考えてみよう。仮にアメリカの首都ワシントンDC(どの州にも属さない特別区)やニューヨーク州の議会でこうした類の不適切ヤジが飛び交ったとして、日本のメディアは大騒ぎするだろうか。そう考えると、海外メディアの異常反応が何を意味するのか、そのことのほうが私には気になる。いま安倍・日本は海外からどう見られているのか。そのことをメディアも政治家も最重要視しなければならない。メディアも政治家も、感覚がどこかずれているのではないか。それとも私がおかしいのかな?(終わり)