小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

安倍さん、言うことと、やろうとしていることが違うよ。中国に平和的解決を求めるなら集団的自衛権行使も…

2014-06-02 06:56:48 | Weblog
 安倍総理が、5月30日、シンガポールで開催されているアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)で基調講演を行い、「国際法に照らして正しい主張をし、力や威圧に頼らず、紛争は平和的解決を図るべきだ」と主張した。日本人の一人として、誇りに思いたい発言だ。だが…。
 その発言が安倍総理の真意だとすると、言うことと、やろうとしていることの落差をどう説明したらいいのだろうか。
 落差の説明は、読者にはすでにお分かりと思うが、あとで改めて要約して述べる。
 この「平和主義発言」は、南シナ海で実効支配を続ける中国をけん制し、中国と対立を深めているフィリピンやベトナムを支持するためのものである。そのため「既成事実を積み重ね、現状の変化を固定しようとする動きは、強い非難の対象とならざるを得ない」と、直接の名指しこそしなかったが、明らかに中国の海洋進出政策に対する懸念の表明である。
 いま、中国は「対日」の一点で韓国と融和政策を取ろうとしている。「韓国の竹島軍事占領を公認する代わりに、中国の尖閣諸島領有権も認めてほしい」という「両国の国益」を共通認識にしようという狙いが見え見えだ。ロシアに対しても「ロシアの北方領土領有権を承認するから、中国の尖閣諸島領有権も認めてほしい」と呼びかけている。
 はっきり言えば、こうした行為は国連憲章が認めている「国際紛争の平和的解決の手段」の一つである。さすがに、韓国もロシアも、中国のこの提案には乗らなかったが、それは韓国もロシアも日本を敵対視することのリスクの方が大きいと判断したからにすぎない。アメリカも日本も、他のすべての国も外交政策の基準は一つである。総合的に判断して自国の「国益」にとってプラスの要素の方が大きいいか、マイナスの要素の方が大きいか、の単純計算で外交政策を決めている。ただし、プラスの要素も、マイナスの要素も、最初から明らかなわけではない。その時の政権が想定した要素でしかなく、必ずしも理性が働いた計算になるとは限らない。
 それは太平洋戦争(先の大戦における米軍との戦争)の帰趨を決めたとされるミッドウェー海戦での攻防にも見て取れる。この海戦は終戦に至る3年以上前の1942年6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー島の争奪戦である。同島は、ハワイ北西に位置し、当時の米海軍にとってハワイ真珠湾と並ぶ太平洋の最重要軍事要衝であった。そのミッドウェー島を攻略することで太平洋戦争の主導権を奪おうというのが日本側の作戦で、日本海軍の総力を挙げての攻防戦になった。実際、この海戦で日本が勝利していたら、太平洋戦争の帰趨はどう転んでいたかわからないと言われている。
 が、この海戦で、日本海軍は機動部隊の空母4隻と艦載機を一挙に失うとい
う大敗北を喫し、太平洋の制海空権は完全にアメリカの掌中に帰した。この敗北は、先の大戦を終結させるための日本にとって大きなチャンスだったはずだ。
 歴史を結果論だけで語ってはいけない、という一つのケースだが、この時点でアメリカには勝てないという冷静な判断が政権内部で働いていれば、何らかの外交手段でアメリカとの和平交渉を進めることができたのではないかと思う。
 私は歴史家でもなければ軍事評論家でもない。ただ、真珠湾攻撃で無謀な対米戦争に踏み切った日本が、アメリカには絶対に勝てないことを誰もが認識できたはずのミッドウェー海戦を和平の好機にしなかった責任は、平和的かつ合法的な軍の独裁政権樹立に手を貸したメディアが一手に負うべきであり、仮に東京裁判を連合軍ではなく日本側が行っていたならば、いわゆるA級戦犯には軍人政治家だけでなくメディアのトップも対象になっていなければおかしい。
 先の大戦に果たしたメディアの責任を、メディア自身が検証するなどということは、犯罪者が自ら犯した罪について裁判官として量刑を決めるような話で、そうした行為にだれも疑問を持たないことが私には不思議でならない。このケース以外は、あらゆる不祥事の検証作業はすべて第三者委員会が行うことになっており、メディアも第三者委員会の人選を巡って公正な検証ができるかどうかの検証作業をしている。なぜメディアは、すべての情報を公開して公正な第三者委員会に、先の大戦で果たしたメディアの役割と責任を検証させないのか。ま、「公正な第三者委員会」が作れるかどうかの疑問はあるけどね…。
 
 先の大戦問題から戻る。安倍総理の崇高な理念(?)に戻ろう。
 尖閣諸島問題について安倍総理は講演終了後の質疑でこう答えた。「尖閣は歴史的にも国際法的にも日本の固有の領土であり、現に日本は有効に支配している」「尖閣についてはまさに領土問題はない」と。
 だが、尖閣諸島については中国が領有権を主張している。安倍総理が米オバマ大統領から「尖閣諸島は日米安保条約5条の適用範囲だ」という言質を取り付けたことで中国の主張を撥ね付けるのだとしたら、南シナ海で実効支配を強める中国を念頭に「既成事実を積み重ね、現状の変化を固定しようとする動きは、強い非難の対象にならざるを得ない」とのアジア安全保障会議での発言は天に唾するようなものではないか。
 一方で、竹島はサンフランシスコ条約締結後60年近くにわたって韓国に実効支配されている。外務省によれば「個別的自衛権を行使して奪還しないのはなぜかという国民の声は寄せられていますが、(国際司法裁判所などでの)平和的解決を政府は目指しています」と言う。私が「韓国に占領されて60年になる。いったいいつまで『平和的解決の努力』を続ける気なのか。香港やマカオの租借権でさえ99年が限界だった。いつまで平和的解決のための努力を続けるのか、
それだけでも教えてほしい」と聞いたが、答えは返ってこなかった。
 なお政府は竹島と尖閣諸島については小学校の教科書にも「日本の領土」と明記させた。子供たちから「竹島は日本の領土なのに、なぜ韓国に占領されているの? 自衛隊は何のために存在するの? 日本の領土を守らず、アメリカの船を守るために存在するの?」と聞かれたら、教諭はどう答えたらいいのだろうか。教育現場で大混乱が生じる可能性について政府は考慮したことがあるのだろうか。
 それだけではない。北方四島(第2次安倍内閣以降「北方領土」と言い換えているが)については教科書には記載しないことにした。ということは、北方領土の領有権は放棄したことを意味するのか?
 日本側はソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告したことを非難し続けている。それは事実だが、もっと大きな事実をひた隠しに隠している。簡単に歴史的経緯を振り返っておこう。

 国連憲章の原案となる「一般的国際機構設立に関する提案」は米・英・ソ・中(中華民国=主席は蒋介石総統)が1944年8~10月に米ダンバートン・オークスに集まって会議を開き、作成した。
 その翌45年6月26日、米サンフランシスコ会議において国連憲章に51か国が署名、国連設立への動きが具体化していく。
 同年8月6日、国連憲章42条に基づく「あらゆる軍事的措置」の権能をアメリカが行使して、広島に原爆を投下。
 8月9日、ソ連が連合国の一員として日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告。
 8月14日、日本政府はボツダム宣言受諾を連合国に通告。
 8月15日、天皇が正午に「終戦」の玉音放送。
 8月28日から9月5日にかけてソ連が、終戦後にもかかわらず北方四島に侵攻し占領、今日に至る。
 10月24日、国際連合が正式に発足。ただし国際連合の原語(英語)はUnited Nationsであり、その邦訳は「連合国」である。
 1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結により日本は独立を回復。
 1953年4月20日、韓国が竹島を武力占拠、今日に至る。

 竹島や北方四島が韓国、旧ソ連に不法占拠された当時、旧日本軍は完全に解体されており、日本の領土を守るのは事実上の占領軍であったアメリカの義務である。それが国際法上の常識である。現に先の大戦において日本が占領した国や地域の安全を守る義務は日本が負っていた。
 言っておくが、私は先の大戦における日本を、いかなる意味においても擁護
するつもりはまったくない。私はただ歴史的事実を論理的に解説しただけだ。
私のこの論理を妙な政治的意図のために利用されることを一切認めない。
 ただ、私が今日のブログで書きたかったことは、中国に対して「東シナ海、
南シナ海においても、国際法が順守されるよう互いに努力を重ねることが大切だ」と要求するなら、「集団的自衛権」の行使についても、日本は少なくとも60年間個別的自衛権すら行使できずに竹島の韓国による実効支配を黙認し「平和的解決」の努力を重ねつつあるわけだから、「行使の限定容認」の中に、行使に至る前に最低60年以上の平和的解決のための努力を行う、という条件を付け加えるべきであろう。
 具体的には、米艦船(「だけとは言っていない」…安倍総理)が攻撃された場合、攻撃した国に対して60年間以上「そういうことはやめなさい」と平和的解決の説得を重ねても、相手が説得に応じなかった場合に、やむをえず日本が「集団的自衛権」の行使に踏み切ることにする。ただしこの「平和的解決のための努力」の期間は竹島が日本に返還されるまでに要する期間に対応して、自動的に延長される。これが純粋に論理的な集団的自衛権行使の条件であろう。

 なお「集団的自衛権」については、今日は一応政府解釈にのっとって書いたが、「集団的自衛権」についての政府解釈そのものが論理的に矛盾だらけであることは、これまで何度もブログで書いてきたので、今日は繰り返さない。