驚いた。何が驚いたと言って、これほど驚いたことはない。
毎日新聞といえば、全国紙5紙の中で最も左寄りで、護憲派新聞と私は理解していた。おそらく大多数の人たちもそう思っていただろう。たまたま昨日、ネットで毎日新聞の記事を読んでいて、その記事の関連記事としてちょっと気になったタイトルの記事があったのでクリックして読んでみた。世の中がひっくり返るような内容だった。これが読売新聞や産経新聞の記事だったら、やっと憲法制定過程の論理的検証にたどり着いたかと思うにすぎなかったのだが、護憲派新聞と思っていた毎日新聞が、現行憲法を真っ向から否定するような検証記事を書いたのだ。その記事全文を私はプリンターで印刷したが、なんとA4判10枚ぎっしりという大論文である。
記事は5月1日付朝刊。「日本の論点」シリーズでタイトルは『憲法を改正すべきか:【基礎知識】日本はなぜ憲法を改正できなかったのか』である。「憲法を改正すべきか」だけだったら護憲主義の論陣を張るのだろうと思うのだが、「日本はなぜ憲法を改正できなかったのか」に引っ掛かった。今回はあまり私の主張を交えず、毎日新聞の記事の部分的無断転載(あるいは要約)を中心にしたい、と今は思っているが…? 記事はこうだ。なお私の主張や解説は※をつけて書く。※の文章が長くなる可能性はある。
なぜ日本国憲法は、改正されないのか。
現憲法は、明治憲法73条の改正手続きに従って改正されたものだ。ただし、その改正草案は、第2次世界大戦の勝者である連合国、とりわけアメリカの意向が色濃く反映されている。(※石原慎太郎氏の「占領軍に押し付けられた憲法」論ではない)
占領軍(連合国総司令部=GHQ)の最高司令官・マッカーサー元帥は、敗戦国日本の憲法をつくり変えるにあたって、草案を作成するGHQの若手スタッフに、(1)天皇に戦争責任を負わせないかわりに、政治的実権を与えないこと、(2)国家の主権的権利としての戦争を永久に放棄させること、(3)封建的な社会制度を廃止すること、という三つの原則を貫くよう指示した。(※いわゆる「マッカーサーノート」を指していると思うが、要約がやや乱暴である。そのため憲法9条の政府原案を巡っての帝国議会での議論や「芦田修正」の過程の検証が誤解を生みかねない内容になっている)
(マッカーサーの)意図が最も明確に表れているのが、憲法9条の「戦争の放棄」である。マッカーサー元帥は、「国権の発動」としての戦争や「紛争を解決する手段」としての戦争だけでなく、「自衛のための」戦争を、さらには「戦力の保持」と「交戦権」さえ否定した。
※これは事実と違う解釈がある。マッカーサーノートには確かに「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」と明記されているが、実際に日本国憲法草案の作成に直接かかわったGHQ民政局のホイットニー局長がマッカーサーの指示に猛反対した。「自衛権をも取り上げるということは日本が将来独立を回復した場合に禍根を残すことになる」と主張して、マッカーサーの指示によって作成された憲法草案から上記一文を削除させた。が、過去の戦争が自衛を口実に行われたことが多いということにかんがみ、日本政府に自衛権の保持を明記しない戦争放棄の条文を作成させたというのが事実である。そのため帝国議会では不明な自衛権を巡って論争があった。現行憲法制定の過程については5月17,19日に投稿した『安倍法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。③、⑤』で詳述しているので読み直していただければ幸いである。
また毎日新聞は同じ敗戦国のドイツが59回も憲法(厳密には基本法)を改正したり、アメリカやフランス、イタリアなどの憲法改正がたびたびおこなわれた事実を書いている。そして「なぜ日本は主権回復と同時に憲法を改正しなかったか」と言う見出しでこう検証している。この視点は私の「現行憲法無効論」とほぼ同じである。実際問題としては、現在現行憲法は有効に機能しており、私の「無効論」は、そういう論理的視点で憲法改正問題に取り組まないと、今日の日本が国際社会とりわけ環太平洋の平和と安全のために、現在の国際的地位にふさわしい義務と責任を果たせないという思いから、あえて採用した言葉である。揚げ足取りに使われると困るので…。
1951年、日本は戦後処理を決める講和会議で単独講和を選択し(※この単独講和という意味は、連合国vs枢軸国という図式から外れて日本が単独で講和したことを指す)、自由主義陣営に属することになった。1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効、日本は主権を回復。このとき同時に結んだのが、米軍の駐留継続を認める日米安保条約である。自主憲法制定に機会があったとすれば、このときだったが、吉田茂首相は頑としてこれを受け付けなかった。戦後復興の眼目を経済復興に定めていたからである。
※この下線部分の歴史認識が私の「現行憲法無効論」の論理的原点でもある。確かに吉田内閣の経済政策である傾斜生産方式=鉄鋼産業と石炭産業を日本の基幹産業と位置付け、すべての経済政策をこの二大産業再建に集中したこと=により、日本産業界が朝鮮戦争特需にありつけ経済復興への足掛かりを築いたことは間違いないが、そのために主権国家としての憲法制定にソッポを向いたことが、今日の集団的自衛権問題を巡る大混乱を招いた遠因になったことも否めない事実である。
(アメリカは)日本に講和条約締結を進める一方、再軍備を強く要請したのである。しかし、吉田茂首相は、警察力強化のための警察予備隊(のち保安隊、自衛隊に発展)の創設こそ認めたが、本格的な再軍備は「やせ馬に重い荷物を負わせるようなもの。日本は国力を養うことが先決」として反対した。再軍備について吉田は自著『世界と日本』の中で、次のように省みている。
「それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職時代のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本の防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟の状態にあるといってよい」
このとき吉田が危惧したのは、のちに続く保守政権が経済成長路線に傾斜するあまり、独立国としての自立心を喪失することだった。
※この吉田首相の回顧録(?)を私は読んでいないが、吉田首相が、日本が主権国家として独立を回復した時点で再軍備を拒んだ理由は私が想像していた通りだったようだが、それならなぜ憲法改正の要件(憲法96条)だけでも将来改正できるように緩和だけでもしておかなかったのか、悔やまれてならない。憲法改正の発議には国会両院でそれぞれ3分の2以上の賛成が必要である。どのみち、国会が憲法改正を発議しても、国民の過半数の賛成がなければ憲法は改正できないのだから。そのとき国民の過半数が「一国平和主義」を選択して、国際社会から孤立することになったとしても、それは国民自身が選んだ道である。まずは憲法を国民の手に取り戻すこと――それがすべてに最優先されるべきである。国民の選択に委ねずして内閣の判断で憲法の解釈が自由にできるということになると、日本は立憲主義の国とは言えない。
毎日新聞は日本で憲法改正が困難になった要因の一つとしてこうも検証している。
もう一つ、憲法改正に立ちはだかる大きな壁に、アカデミズムやジャーナリズムにおける進歩主義勢力の存在があげられる。この頃、リベラル思想や社会主義的な思想が、学生や市民の間に広い支持を得ていた。憲法学では、東大教授の宮沢俊儀氏が「8月革命説」(日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った。日本国憲法は、国民の代表による議会で審議され可決されたのだから、GHQの押しつけではなく、国民自ら選び取った、とする説)を唱えたのをきっかけに、戦前の国家、軍隊に対するアレルギーと戦争に対する深刻な反省と相まって、アカデミズムのメインストリームを形成していたのである。
しかしグローバリズムの到来が、日本に対して国際社会の一員としての自立を迫っていたことには間違いなく、(最近は)憲法改正はすでにタブーではなくなっていた。
世論調査でも、憲法改正に賛成する声が反対を上回るようになった。読売新聞が1980年代から実施している「憲法」世論調査では、1993年の調査から賛成派が過半数を超えるようになった(2008年だけは反対派が僅差で上回り、直近の2014年の調査では賛成42%、反対41%とほぼ並ぶ結果となった。読売新聞2014年3月14日付)。(※世論の動向を、ライバルである読売新聞の世論調査によって裏付けるといったことも、異例中の異例である)
各新聞社をはじめ学者、民間団体からも独自の憲法改正試案があいついで発表され、2000年には衆参両院に憲法調査会が設置された。学識経験者を参考人として招き、現行憲法の制定の経緯や各条文の問題点の洗い出し、世界の憲法についての研究・視察が行われ、半世紀を経た憲法が時代にそぐわなくなった側面が明らかにされた。(※ここまで言い切ると、もはや毎日新聞は改憲派に転向したと判断してもいいだろう)
毎日新聞が掲載した大論文。現行憲法制定過程の解釈に多少問題があるにせよ、現行憲法が抱えている問題点をここまで指摘した主張には素直に敬意を表したい。もちろんこの大論文が最後に述べたように、「憲法改正への道のりは、いぜん遠い」ことは間違いない。
ただ、なぜ「遠い」のか。むしろ、なぜ「遠くなった」のか。その視点が欠落していたのは残念である。
はっきり言えば、「憲法改正まで待っていられない」という安倍総理の憲法解釈変更の試みが、解釈変更によって何でもできるという警戒感を国民に与えていることは疑いを容れない。なぜ安倍総理は、吉田総理がサンフランシスコ講和条約締結によって独立を回復した時点で、主権国家としての憲法の制定に踏み切らなかったのかを、国民に対して謝罪とともにきちんと説明しないのか。
最後に毎日新聞が紹介した護憲論の柱である東大・宮沢教授の「8月革命説」について一言。確かに日本政府がポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った、と言えなくはない。が、現行憲法は国民主権のもとで制定されたとは言い難い。現行憲法は、確かに最終的な手続きとして帝国議会で承認されたが、帝国議会での承認の前に枢密院で可決され天皇が裁可した時点で事実上成立していた。帝国議会での承認は戦中と同様儀式的なものにすぎない。
また議会での可決で成立するのは、現国会においても一般の法律だけである。立法府の権限は憲法改正までは及ばない。現行憲法が帝国議会での承認を経て発議され、国民投票によって承認されたのであれば、宮沢氏が主張するように「国民自ら選びとった」とする説もあながち否定できないが、肝心の国民投票という手続きを経ていない。こういう屁理屈が「護憲論」の柱になっていたとは、私は露知らなかった。東大教授のレベルに低さもさることながら、こういう屁理屈に屈してきた憲法学者たちは論理的思考力がサルにも劣る、とはちょっと言い過ぎか…。
毎日新聞といえば、全国紙5紙の中で最も左寄りで、護憲派新聞と私は理解していた。おそらく大多数の人たちもそう思っていただろう。たまたま昨日、ネットで毎日新聞の記事を読んでいて、その記事の関連記事としてちょっと気になったタイトルの記事があったのでクリックして読んでみた。世の中がひっくり返るような内容だった。これが読売新聞や産経新聞の記事だったら、やっと憲法制定過程の論理的検証にたどり着いたかと思うにすぎなかったのだが、護憲派新聞と思っていた毎日新聞が、現行憲法を真っ向から否定するような検証記事を書いたのだ。その記事全文を私はプリンターで印刷したが、なんとA4判10枚ぎっしりという大論文である。
記事は5月1日付朝刊。「日本の論点」シリーズでタイトルは『憲法を改正すべきか:【基礎知識】日本はなぜ憲法を改正できなかったのか』である。「憲法を改正すべきか」だけだったら護憲主義の論陣を張るのだろうと思うのだが、「日本はなぜ憲法を改正できなかったのか」に引っ掛かった。今回はあまり私の主張を交えず、毎日新聞の記事の部分的無断転載(あるいは要約)を中心にしたい、と今は思っているが…? 記事はこうだ。なお私の主張や解説は※をつけて書く。※の文章が長くなる可能性はある。
なぜ日本国憲法は、改正されないのか。
現憲法は、明治憲法73条の改正手続きに従って改正されたものだ。ただし、その改正草案は、第2次世界大戦の勝者である連合国、とりわけアメリカの意向が色濃く反映されている。(※石原慎太郎氏の「占領軍に押し付けられた憲法」論ではない)
占領軍(連合国総司令部=GHQ)の最高司令官・マッカーサー元帥は、敗戦国日本の憲法をつくり変えるにあたって、草案を作成するGHQの若手スタッフに、(1)天皇に戦争責任を負わせないかわりに、政治的実権を与えないこと、(2)国家の主権的権利としての戦争を永久に放棄させること、(3)封建的な社会制度を廃止すること、という三つの原則を貫くよう指示した。(※いわゆる「マッカーサーノート」を指していると思うが、要約がやや乱暴である。そのため憲法9条の政府原案を巡っての帝国議会での議論や「芦田修正」の過程の検証が誤解を生みかねない内容になっている)
(マッカーサーの)意図が最も明確に表れているのが、憲法9条の「戦争の放棄」である。マッカーサー元帥は、「国権の発動」としての戦争や「紛争を解決する手段」としての戦争だけでなく、「自衛のための」戦争を、さらには「戦力の保持」と「交戦権」さえ否定した。
※これは事実と違う解釈がある。マッカーサーノートには確かに「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」と明記されているが、実際に日本国憲法草案の作成に直接かかわったGHQ民政局のホイットニー局長がマッカーサーの指示に猛反対した。「自衛権をも取り上げるということは日本が将来独立を回復した場合に禍根を残すことになる」と主張して、マッカーサーの指示によって作成された憲法草案から上記一文を削除させた。が、過去の戦争が自衛を口実に行われたことが多いということにかんがみ、日本政府に自衛権の保持を明記しない戦争放棄の条文を作成させたというのが事実である。そのため帝国議会では不明な自衛権を巡って論争があった。現行憲法制定の過程については5月17,19日に投稿した『安倍法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。③、⑤』で詳述しているので読み直していただければ幸いである。
また毎日新聞は同じ敗戦国のドイツが59回も憲法(厳密には基本法)を改正したり、アメリカやフランス、イタリアなどの憲法改正がたびたびおこなわれた事実を書いている。そして「なぜ日本は主権回復と同時に憲法を改正しなかったか」と言う見出しでこう検証している。この視点は私の「現行憲法無効論」とほぼ同じである。実際問題としては、現在現行憲法は有効に機能しており、私の「無効論」は、そういう論理的視点で憲法改正問題に取り組まないと、今日の日本が国際社会とりわけ環太平洋の平和と安全のために、現在の国際的地位にふさわしい義務と責任を果たせないという思いから、あえて採用した言葉である。揚げ足取りに使われると困るので…。
1951年、日本は戦後処理を決める講和会議で単独講和を選択し(※この単独講和という意味は、連合国vs枢軸国という図式から外れて日本が単独で講和したことを指す)、自由主義陣営に属することになった。1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効、日本は主権を回復。このとき同時に結んだのが、米軍の駐留継続を認める日米安保条約である。自主憲法制定に機会があったとすれば、このときだったが、吉田茂首相は頑としてこれを受け付けなかった。戦後復興の眼目を経済復興に定めていたからである。
※この下線部分の歴史認識が私の「現行憲法無効論」の論理的原点でもある。確かに吉田内閣の経済政策である傾斜生産方式=鉄鋼産業と石炭産業を日本の基幹産業と位置付け、すべての経済政策をこの二大産業再建に集中したこと=により、日本産業界が朝鮮戦争特需にありつけ経済復興への足掛かりを築いたことは間違いないが、そのために主権国家としての憲法制定にソッポを向いたことが、今日の集団的自衛権問題を巡る大混乱を招いた遠因になったことも否めない事実である。
(アメリカは)日本に講和条約締結を進める一方、再軍備を強く要請したのである。しかし、吉田茂首相は、警察力強化のための警察予備隊(のち保安隊、自衛隊に発展)の創設こそ認めたが、本格的な再軍備は「やせ馬に重い荷物を負わせるようなもの。日本は国力を養うことが先決」として反対した。再軍備について吉田は自著『世界と日本』の中で、次のように省みている。
「それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職時代のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本の防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟の状態にあるといってよい」
このとき吉田が危惧したのは、のちに続く保守政権が経済成長路線に傾斜するあまり、独立国としての自立心を喪失することだった。
※この吉田首相の回顧録(?)を私は読んでいないが、吉田首相が、日本が主権国家として独立を回復した時点で再軍備を拒んだ理由は私が想像していた通りだったようだが、それならなぜ憲法改正の要件(憲法96条)だけでも将来改正できるように緩和だけでもしておかなかったのか、悔やまれてならない。憲法改正の発議には国会両院でそれぞれ3分の2以上の賛成が必要である。どのみち、国会が憲法改正を発議しても、国民の過半数の賛成がなければ憲法は改正できないのだから。そのとき国民の過半数が「一国平和主義」を選択して、国際社会から孤立することになったとしても、それは国民自身が選んだ道である。まずは憲法を国民の手に取り戻すこと――それがすべてに最優先されるべきである。国民の選択に委ねずして内閣の判断で憲法の解釈が自由にできるということになると、日本は立憲主義の国とは言えない。
毎日新聞は日本で憲法改正が困難になった要因の一つとしてこうも検証している。
もう一つ、憲法改正に立ちはだかる大きな壁に、アカデミズムやジャーナリズムにおける進歩主義勢力の存在があげられる。この頃、リベラル思想や社会主義的な思想が、学生や市民の間に広い支持を得ていた。憲法学では、東大教授の宮沢俊儀氏が「8月革命説」(日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った。日本国憲法は、国民の代表による議会で審議され可決されたのだから、GHQの押しつけではなく、国民自ら選び取った、とする説)を唱えたのをきっかけに、戦前の国家、軍隊に対するアレルギーと戦争に対する深刻な反省と相まって、アカデミズムのメインストリームを形成していたのである。
しかしグローバリズムの到来が、日本に対して国際社会の一員としての自立を迫っていたことには間違いなく、(最近は)憲法改正はすでにタブーではなくなっていた。
世論調査でも、憲法改正に賛成する声が反対を上回るようになった。読売新聞が1980年代から実施している「憲法」世論調査では、1993年の調査から賛成派が過半数を超えるようになった(2008年だけは反対派が僅差で上回り、直近の2014年の調査では賛成42%、反対41%とほぼ並ぶ結果となった。読売新聞2014年3月14日付)。(※世論の動向を、ライバルである読売新聞の世論調査によって裏付けるといったことも、異例中の異例である)
各新聞社をはじめ学者、民間団体からも独自の憲法改正試案があいついで発表され、2000年には衆参両院に憲法調査会が設置された。学識経験者を参考人として招き、現行憲法の制定の経緯や各条文の問題点の洗い出し、世界の憲法についての研究・視察が行われ、半世紀を経た憲法が時代にそぐわなくなった側面が明らかにされた。(※ここまで言い切ると、もはや毎日新聞は改憲派に転向したと判断してもいいだろう)
毎日新聞が掲載した大論文。現行憲法制定過程の解釈に多少問題があるにせよ、現行憲法が抱えている問題点をここまで指摘した主張には素直に敬意を表したい。もちろんこの大論文が最後に述べたように、「憲法改正への道のりは、いぜん遠い」ことは間違いない。
ただ、なぜ「遠い」のか。むしろ、なぜ「遠くなった」のか。その視点が欠落していたのは残念である。
はっきり言えば、「憲法改正まで待っていられない」という安倍総理の憲法解釈変更の試みが、解釈変更によって何でもできるという警戒感を国民に与えていることは疑いを容れない。なぜ安倍総理は、吉田総理がサンフランシスコ講和条約締結によって独立を回復した時点で、主権国家としての憲法の制定に踏み切らなかったのかを、国民に対して謝罪とともにきちんと説明しないのか。
最後に毎日新聞が紹介した護憲論の柱である東大・宮沢教授の「8月革命説」について一言。確かに日本政府がポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った、と言えなくはない。が、現行憲法は国民主権のもとで制定されたとは言い難い。現行憲法は、確かに最終的な手続きとして帝国議会で承認されたが、帝国議会での承認の前に枢密院で可決され天皇が裁可した時点で事実上成立していた。帝国議会での承認は戦中と同様儀式的なものにすぎない。
また議会での可決で成立するのは、現国会においても一般の法律だけである。立法府の権限は憲法改正までは及ばない。現行憲法が帝国議会での承認を経て発議され、国民投票によって承認されたのであれば、宮沢氏が主張するように「国民自ら選びとった」とする説もあながち否定できないが、肝心の国民投票という手続きを経ていない。こういう屁理屈が「護憲論」の柱になっていたとは、私は露知らなかった。東大教授のレベルに低さもさることながら、こういう屁理屈に屈してきた憲法学者たちは論理的思考力がサルにも劣る、とはちょっと言い過ぎか…。