小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

最終段階に迫った「集団的自衛権行使」問題をめぐる攻防――その読み方はこうだ。②

2014-06-19 07:30:33 | Weblog
 ねつ造者は、ねつ造者をほめたたえるのが上手なようだ。STAP細胞疑惑で真っ黒けになった小保方晴子氏は、三木秀夫弁護士より防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛氏を代理人にお願いしたほうがよかったのではないか。
 ま、それは冗談がきつすぎたかもしれないが、朝日新聞が社説欄のすべてを使って批判した安保法制懇(安倍総理が設置した「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」)の報告書を、佐瀬氏はべた褒めした。
「同報告書は憲法解釈をめぐり息苦しいまでに理詰めの文書で、感情が立ち入る余地は皆無である。それも道理、集団的自衛権は国連憲章抜きでは議論できず、我が国の現行政府解釈、すなわち『国際法上は保有、だが憲法上は行使不可』もまさにその線上での議論である。ともに感情を抑えて砂を噛(か)む思いに耐える覚悟なしでは理解できない」
 佐瀬氏がこれほど高く評価した安保法制懇の報告書は、歴史の捏造を根拠にしたものである。報告書は、歴代政府の憲法解釈の変更についてこう書いている。それが、実は歴史の捏造なのだ。

 憲法9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」としていたのを、1950年代には「自衛のための抗争は放棄していない」とした。

 実は現行憲法は主権国家としての日本が自主的に制定したものではない。日本を占領下においたGHQの意向が色濃く反映されたものであることは、護憲勢力も否定していない。
 終戦後、日本政府は直ちに自主的な新憲法草案の作成に着手した。1946年2月8日にGHQに提出した改正案は天皇の統帥権を否定し、「軍事行動には帝国議会の承認を必要とする」という制限を加えることで済まそうと考えていた。が、日本の軍事力を完全に解体しようと考えていたGHQ総司令官マッカーサーが、そんな小手先の改正を容認するわけがなかった。マッカーサーは、日本の再軍備をも否定する新憲法三原則(いわゆる「マッカーサー・ノート」)を日本政府に突き付けた。そこに明記された憲法原案のうちの第二原則はこうだった。

国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

 このマッカーサー原案に噛み付いたのがGHQの民政局長(憲法草案起草のGHQ側責任者)ホイットニーだった。「自衛権をも取り上げたら、日本が将来独立を回復した際、禍根を残す」と批判し、マッカーサー原案から「さらに自己の安全を保持するための戦争をも」の部分を削除させた。が、占領下にあった日本の安全を保障するのは、占領側の米軍にあるのは国際法上当然である。実際当時の植民地においては、国際法上植民地の安全を守る義務は宗主国が持つことになっており、たとえ植民地化された国に軍隊が存在していても、その軍隊は宗主国の軍の支配下に置かれた。
 また終戦直後の日本には、軍隊を維持できるだけの余力も残っていなかった。国民は食うや食わずだったし、軍隊には欠かせない兵器の生産どころか鍋、釜の生産すらままならない状態だった。戦争に負けた日本を米軍が占領下において日本防衛の義務を果たしていなかったら、米軍が引き揚げたあとの日本は間違いなくソ連に占領されていた。そうした状況の中で当時の吉田内閣がGHQと交渉しながらまとめ、46年4月17日に枢密院(天皇の最高諮問機関)に提出されたのが、最初の政府原案だった。そこで若干の修正が加えられて6月25日に第90回帝国議会に上程された憲法9条はこうなっていた。

第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

 この政府原案に対して、当然だが自衛権をも否定するのか、という批判が帝国議会で相次いだ。たとえば6月26日には日本進歩党・原夫次郎議員の質問に対して吉田総理は「第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁している。社会党や共産党も、政府原案に原議員と同様の立場から反対した。
 安保法制懇は、このときの吉田答弁をもって終戦直後の政府の憲法解釈を「自衛権の発動としての戦争、また交戦権も放棄した」としている。が、実はこの政府原案はそのままでは帝国議会で承認されなかった。実は本会議と並行して7月25日から帝国憲法改正小委員会が設けられ、政府原案についての検討が行われていた。その委員会の委員長が芦田均氏であった。そして帝国憲法小委員会で政府原案が修正され、吉田内閣は10月12日に「修正帝国憲法改正案」として枢密院に上程、天皇の裁可を経て11月3日、公布された(施行は翌47年5月3日)。それが、いわゆる「芦田修正」と言われる現行憲法なのである。芦田氏が行った修正は9条の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を希求し」という文言を加えたことと、第2項の頭に「前項の目的を達するため」という文言を加えた2点である。
 芦田氏は、なぜこの二つの文言を加えたのか。新憲法が公布された46年11月に発表した『新憲法解釈』でこう述べている。

 第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争ということになる。したがって自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたものではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の下関条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している。

 吉田内閣が作成した政府原案は、このように芦田氏によって修正され、日本国憲法として制定された。繰り返しになるが、現行憲法が公布されたのは46年11月3日、施行されたのは47年5月3日である。少なくとも46年11月以降、政府が自衛権を憲法解釈によって否定したことは一度もない。高村副総裁が引き合いに出した最高裁の砂川判決も、この芦田修正を根拠にしている。安保法制懇は、まぎれもなく憲法解釈について、歴史的事実を捏造することで、憲法解釈を変更することが可能だという根拠にしている。
 ただ、現行憲法が占領下において制定されたという事情、また第3次吉田内閣時代の1950年6月からアメリカとの間で平和条約の交渉が始まり、アメリカから「独立した際には主権国家としての責任を果たせ」と再軍備を要請されたが、経済復興に全力を注ぎたかった吉田総理は「やせ馬に重荷を背負わせようとするのか」と突っぱねて憲法改正も行わなかった。その結果、現行憲法が「戦争を禁じた平和憲法」という短絡的な解釈を広めてしまった大きな要因の一つである。また、日本共産党が影響力を強く持っていた日教組が学校教育で「平和憲法」幻想を広めたことも、日本人の憲法観に大きく与ってきた。(続く)