小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

なぜ「集団的自衛権」の誤解釈が定着したのか?…岸元総理は日米安保の意味を正しく理解していたのに…。

2014-06-10 09:27:52 | Weblog
 今日から与党で集団的自衛権についての本格的議論が始まることになった。自民は何が何でも来週中に閣議決定に持ち込みたいようだ。アメリカが「別に年内にこだわっていないよ」と言っているのに、年内の日米ガイドラインの見直しに、自民は間に合わせたいようだ。
 私には不思議でならない。私のブログはメディアや政界の人たちからかなり読まれているのに、なぜ「集団的自衛権」についての解釈を間違えたまま議論を続けているのか。ブログだけではなく、メディアや政党に電話をして説明すると、ほぼ全員が私の主張に納得してくれるのに、それがメディアや政党の主張に反映されない。局外者の私に「誤解」を指摘され、「はい、そうでした」と主張を改めるのが沽券にかかわるとでも思っているのだろうか。

 集団的自衛権についての政府の見解はこうだ。「自国が攻撃を受けていなくても、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」ということだ。
 国連憲章51条における集団的自衛権の原語(英語)はこうだ。
 right(権利) of collective(集団の) self‐defense(自己防衛)
 この邦訳がなぜ「他国の防衛の権利」になってしまうのか。そんな権利は日本国憲法9条の解釈をまつまでもなく、国連憲章も認めていない。むしろ、軍事大国(列強)が、他国間の紛争に乗じ「自国の権益が侵される」と勝手に主張して軍事介入し、権益の拡大を図ってきた過去の反省に踏まえて、そういう勝手な行動を防ぐ目的でつくられたのが国連憲章である。
 アメリカをはじめ諸外国の政府がどういう解釈をしているのかわからないが、日本の政府がおかしな見解を示したためか、ウィキペディアも完全に矛盾した説明をしている。まず集団的自衛権については「他の国家が武力攻撃を受けた場合に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利」というのがウィキペディアの説明だ。この説明の根拠とされているのが筒井若水氏の『国際法辞典』(有斐閣、2002年刊)と山本草二氏の『国際法(新版)』(有斐閣、2003年刊)である。いずれも政府が集団的自衛権についての見解が発表された後の刊行物である。筒井氏も山本氏も国際法の権威のようだが、政府の説明をなぜうのみにしてしまったのか。国際法の専門家まで政府の説明をうのみにしてしまうから、誤解がいつの間にかメディアにも政界にも定着してしまったとしか考えられない。
 そのことは置いておいても、ウィキペディアはこうも書いている。「個別的自衛権(自国を防衛する権利)は国連憲章成立以前から国際法上承認された国家の権利であったのに対し、集団的自衛権については国連憲章成立以前にこれが国際法上承認されていたとする事例・学説は存在しない」と。(筒井氏前著)
 これは事実と違う。集団的自衛権が他国を防衛する権利だとしても、国連憲章成立以前に国際法上認められていた権利がある。「永世中立国」がそれで、国際会議で「永世中立」を宣言した国があり、それを承認した国は「永世中立宣言をした国が他国から侵害された場合、共同で防衛する義務」があった。が、実際には非武装中立国が第三国に侵害されたときに、中立国の防衛義務を果たした国はなかった。そのため永世中立を守るには、スイスのように国民皆武装で「自分の国は自分で守る」しかないという歴史的教訓に基づいて、国連憲章51条が制定されたという経緯を理解しておく必要がある。
 そのうえで国連憲章の大原則を改めて確認しておこう。
 まず憲章1条1項で、国連の目的が「国際の平和及び安全を維持すること」にあるとし、2条3項では「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」と国際紛争解決の大原則(武力行使によらない平和的解決)を加盟国に義務付けている。
 にもかかわらず国際紛争が生じ、加盟国間の平和的手段による解決が困難になった場合を想定して第7章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」という章を設けた。その冒頭の39条で、国連安保理に対し41条及び42条による措置をとることを認めている。
 41条は「非軍事的措置」についての安保理が行使できる権能について記載しており、具体的には「経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部または一部の中断並びに外交関係の遮断を含む」あらゆる非軍事的制裁を行う権能を安保理に与えた。
 さらに42条の「軍事的措置」については「国際の平和及び安全の維持または回復に必要な空軍、海軍、または陸軍の行動をとることができる」としている。つまり、平和を乱した国に対して41条の発動によるあらゆる非軍事的制裁を科しても平和を回復できなかった場合には、やむを得ず安保理が軍事的制裁を行ってもいいよ、と強大な権能を与えたのである。
 しかし安保理15か国中、米英仏露中の常任理事国5か国には拒否権が付与されているため実際に安保理が41条及び42条によって付与された「あらゆる権能」を行使出来ないことも想定され、51条に国連加盟国に対して「自衛権」を認めることにしたという経緯がある。
 そのため51条で「国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安保理が(41条及び42条による)国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」としたのである。
 つまり「個別的」であろうと「集団的」であろうと、自国に対する武力攻撃が行われた場合、安保理が必要な措置をとるまでの間、平和的手段によらず自衛のための軍事力を行使することを容認したのが51条であり、その「集団的自衛」権の行使の内容に、自国が攻撃されていないのに他国を防衛するための軍事行動を行う権利など、憲章を逆さに読んでも解釈できる余地はない。
 政府見解によれば、集団的自衛権は「他国を防衛する権利」だそうだが、それなら個別的自衛権とは何か。当然自国の軍隊(実力?)である自衛隊ということになるが、それでは日米安保条約によって日本が基地を提供し、その基地に駐留している米軍はどう位置付ければいいのか。基地の大半が沖縄に集中し
ているという実態は不問に付すとしても、名目上は日本に駐留している米軍は日本を防衛するためということになっているはずだ。つまり、有事の際に米軍は日本を防衛する義務をもっていることになっており、個別的自衛力である自衛隊だけでは日本を守ることができない場合(自衛隊は憲法の制約によって「専守防衛」の範囲でしか実力を行使できないことになっている)、米軍に日本防衛を要請できる権利を保持している。それが、安保法制懇が大好きな言葉の「文理解釈」であろう。それ以外の文理解釈はどう屁理屈をこねても不可能だ。
 また、これは朝日新聞8日付朝刊の長文解説記事『やさしい言葉で一緒に考える 集団的自衛権』を読んで初めて分かったことだが、安倍総理の祖父・岸総理が参院予算委員会(60年)で、「他国に基地を貸して、そして自国のそれと共同して自国を守るというようなことは、当然集団的自衛権として解釈されている点で、(※集団的自衛権は)日本として持っている」と答弁していたようだ。私は終始一貫して、日本は日米安全保障条約によって、日本有事の際には条約上の権利によっていつでもアメリカの軍事的支援を要請できるのだから、すでに集団的自衛権は保持しているし、いつでも行使できる状態にあると主張してきた。
 実際オバマ大統領が今春、日本を訪れた際、「尖閣諸島は安保条約5条の適用範囲にある」と明言したことで、もし中国が尖閣諸島を不法に軍事的支配下に置こうとした場合、米軍は自衛隊と共同で尖閣諸島を防衛してくれることが確約されたとしてきた。なお安保条約5条は「各締約国(=日米)は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」である。
 これが日本の保持している集団的自衛権でなかったとしたら、ではアメリカが日米安保条約に基づいて日本に対して負っている防衛義務は、どういう性質のものなのか。まさか「日本の個別的自衛権」などと安倍総理も主張はしないだろう。もし、そう主張するとしたら、日本防衛のために発動される米軍の軍事行動は、自衛隊の指揮系統下にあることになる。そんなことをアメリカが認めるわけがない。
 だが、岸首相の答弁の直後に内閣法制局長官が「それは個別的自衛権で説明できる」と事実上修正したらしい。そして81年には政府の公式見解として「集団的自衛権は持ってはいるが、憲法9条の制約によって行使できない」とされた。その結果、集団的自衛権についての政府見解の論理的整合性が失われ、「有事の際、同盟国のアメリカに軍事的支援を要請できる権利」から「他国を守る権利」というおかしな解釈に変更されてしまったのである。
 実はその前年の59年12月に「個別的自衛権」を認めた最高裁の砂川判決が出ていた。この砂川判決で、最高裁は個別的自衛権を認めたうえで、「(憲法9条が)禁止する戦力とは日本国が主権国として指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力に当たらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法および前文の趣旨に反しない」という判断を下していた。が、駐留米軍の存在については「高度な政治性を持つ条約」に基づいており、「違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」とした。はっきり言えば、冷戦下において日本が自衛隊の戦力だけで日本の安全を守ることは不可能と理解していながら、駐留米軍に対する法的解釈を避けたのである。そういう背景があって、内閣法制局が総理の国会答弁を否定するという、異例中の異例とも言える事態が生じたのではないだろうか。なお、これは私の論理的解釈であり、朝日新聞は砂川判決との関連については一切触れていない。

 しかし、それにしてもおかしいのはメディアも政治家も、この政府見解に疑問をまったく抱かず今日まで来たということだ。疑問を持てば、諸外国、とりわけアメリカやEU諸国、ロシア、中国、韓国など日本と関係が深い国連加盟国が「集団的自衛権」についてどういう解釈をしているか、各国政府に取材すれば、すぐに分かるはずだ。少なくとも日本政府の見解が国際的に共通した認識であれば、NATOやワルシャワ条約機構など必要としなかったはずだ。また日米安保条約も不必要ということになる。
 実際、政府で行われている自公両党による会議は、もはや「集団的自衛権」の行使云々とは大きくかけ離れてしまっているのが実態だ。たとえば自民が公明を説得して閣議決定に持ち込むために、どんどん「行使の範囲」を狭めている。後方支援に至っては、戦闘地域外でかつ武器・弾薬類を除く、とまで譲歩している。それでいて文言はあくまで「集団的自衛権」にこだわり続けている。なぜ「戦闘地域外での武器・弾薬類を除いた後方支援」が「他国を守る権利」に該当するのか、そうした疑問を呈しもしないメディアや政治家には、ただ呆れるしかない。
 ただ私は、日本が国際社会に占めている現在の地位や責任から考えても、アジアを含む環太平洋の平和と安全に対して相応の貢献はすべきだと考えている。はっきり言えば、東南アジア・太平洋諸国間の集団的安全保障体制を構築するための方向性を、日本は明確に打ち出すべきだと考えている。ただし、そのためには憲法を改正する必要がある。それが日本の安全をより確実なものにし、またこの地域での戦争を永遠になくす唯一の方法だと思うからだ。
 憲法9条を改正すれば、日本がまた戦争を始めると考える人たちがいる。そういう危惧を護憲主義者たちに抱かせてしまったのは、クーデターによらずして軍事独裁政権の成立がなぜ日本では可能になったのかの、真の検証をメディアが避けているからだ。メディアがメディア本来の在り方を取り戻せば、国民はメディアの報道を信用するようになる。