マタイの福音書6:14
『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。』
キリストの十字架は罪人の罪を赦すためのものでした。
それを信じて自分の罪を告白し、キリストを信じるならば神の恵みによって罪赦され、魂が救われます。
救いは、行いとは何の関係もないです。
信仰抜きで誰かの罪を赦したからと言って自分が救われることはないです。
しかしイエス様はそれに相反するようなことばを本文や別の箇所でも言われました。
マタイの福音書6:12
『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』
マタイの福音書6:15
『しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。』
これらのことばに対して矛盾を感じたり象徴的な意味として考えるよりは、ありのままを受け入れるべきだと思います。
キリストが自分のような罪人を恵みによって赦して下さったならば、キリストのように自分に罪を犯した人に対して罪を赦す責任があります。
恵みによって救われた人は、その良い恵みを生活の中で表すことです。
人の罪を赦すことも恵みを受けた人がすることです。
【関連聖句】
ルカの福音書6:37
『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。』
《 3分バイブルボイス 》
【働き】自分はどのような器なのか?:ローマ12章