Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

三本琢雄による燐光群創始期のチラシ・ポスター絵

2016-05-05 | Weblog
燐光群旗揚げから5本めまでのポスターとチラシには、三本琢雄の手によるイラストが描かれていた。大きいポスター。大きいチラシだった。がさつでも大きさで目立とうとしたのだ。それがそのような意図として汲まれ、受け入れられた。そんな時代。三十年以上前なのだ。
どんなイラストが描かれていたかというと、1983年の旗揚げ公演『黄色犬』は犬、次の『処刑空港』は鳥(空港=飛行機=飛ぶ=鳥という連想だろう)、いずれも白地に黒。翌年の野外劇『オルレアンのうわさ』は耳(噂を聞くのは耳である)で単色だが濃いピンクにした、次の『ヌートリアズ・バトル』は、そのヌートリア(戦後流入して岡山によくいて、実際よく見かけ、身近ではカワウソネズミ、とも呼んでいた。毛皮というか襟巻きの素材にもなる)で、茶色。次が『蝶たちの獄』で、劇中にも登場する「国蝶」オオムラサキの絵で、紫だった。要は動物の絵のオンパレードだったことになる。私が生きものに凝っていたのだ。たぶん。蝶以外の生きものの絵は、どこか三本君に似ていた。凝るといえば、旗揚げから数本は舞台の床にベニヤやパンチカーペットのような「いかにも演劇用のもの」を見せないように覆い隠したりすることにも凝っていた。『黄色犬』は土、『処刑空港』は一面のタイヤの山、『オルレアンのうわさ』は〈空中野外劇〉と称してホンモノの屋上のコンクリート、『ヌートリアズ・バトル』は、一面の葉っぱ、『蝶たちの獄』はどうだったかといえば、刑務所の話なので殺伐としたコンクリートだった。再演でツアーした京都大学西部講堂では、もともと講堂の真ん中近くにあったコンクリートのタタキというかステージを自分たちでセメントを捏ねて拡大した。当時私は工務店のバイトをしていた。あの頃私たちは東京の劇団なのに西部講堂連絡協議会に加盟していたのだ。拡大されたコンクリステージは今でも西部講堂に残っている。

三本琢雄は私の高校の同級生で、もともとは硬式テニス部だったが、私と家が近く、自転車通学で連れ立って通学するようになり、やがて彼は硬式テニス部をやめて、私が所属していた陸上部と映画部に入ってきた。私が見込んでジャンプ競技を薦めたのは正解で、彼の脚のバネがすぐれていることは確かで、実際、ハイジャンプでは県大会でいい記録を出した。ちなみに、というか余談だが、岡山県では先輩に当たる岸田敏志さんがジャンプの記録保持者だったが、当時上京して歌手デビューしていた彼がテレビドラマの挿入歌にもなった「君の朝」の大ヒットで人気者になったのには驚いた。まあとにかく、私のオルグが功を奏したのか、他の体育系の部から陸上部にやって来た者は多い。人間関係がうまくいかないとか、レギュラーになれなかったとか、今ひとつ記録がぱっとしないとかの事情のありそうな者は、軒並み私に誘われて陸上部に入ってきたのだ。そしてまるでその組み合わせ入部が決まりであるかのように大半の者が同時に私が一年生の時から部長をしていた映画部にも入った。のどかな時代であった。陸上部はトラックかフィールドに別れ、それぞれの中にも幾つもの競技がある。皆がそれぞれ独自に勝手に自分の領域のことをしていた。競技会の時の雑然とした雑居は快かった。考えてみると一番「劇団」に近い運動部が、陸上部だったかもしれない。

三本くんとはいろいろなことを一緒にやった。通学の自転車だけでなく、陸上部だからというだけでもなく、よく一緒に走った。三村君らと淡路島にキャンプに行った。高校時代以降でキャンプに行ったのなんてあれだけだ。登校途中になんとなく顔を見合わせ、そのまま学校をサボったこともよくあった。通学路はまわりは田んぼばかりで何もなかった。ときどき学校に行くのが虚しくなるのだ。よく話もしたし、長い時間を黙っていても互いに平気だった。何しろ田舎なので自然の中にいた。川沿いによくいた気がする。川を下っていくと、海に出るのだ。……映画部で私たちが初めて作った映画では、三本君が食い逃げする若者で、やはりバスケット部から、陸上部と映画部に来た森君がそれを追いかけ、とにかく登場人物が全篇走っていて、最後は海に入っていくのである。生徒会に掛け合って野球部と映画部の部費の著しい格差を糾弾し、映画部の予算を十倍にしてもらって創った映画だ。実際、生徒の持ち出しは1円もなかったのである。この時対応してくれた生徒会長が国塩恭で、彼は燐光群の旗揚げに加わり、その後ウィーンで会社を作り、ヨーロッパで活躍するようになるのである。

三本くんは絵が好きで、特に彫刻に目標を定め、大学は芸術学部に進んだ。1984年夏、かつてのバウスシアターの屋上で上演した『オルレアンのうわさ』では三本君にその技能を生かした等身大の人形を作ってもらった。30年以上前だが野外劇であるための雨対策だったためだったか本人のやってみたい気持ちからだったか忘れたが、最終的にFRP製になった。男の人形はヒッチコックのように腹が出ている造形だった。西洋人のニュアンスを表現しようとしたのだろう。女の人形は出演していた河上真理に似せたはずだがあまり似ていなかった。そういうものだ。三本君の想像力が勝ったのだ。『オルレアンのうわさ』は猪熊恒和の舞台デビュー作でもある。

その後三本くんは、たまには芝居も観てくれたが次第に疎遠になり、ごく希にしか会わなくなったが、こちらにもいつでも会えるという油断があったのだと思う。
彼がここしばらく体調を崩し、会社を辞め、酒を多く摂取する状態にあったことは、ちゃんと耳に入ってこなかった。葬儀は家族だけでと聞かされた。

とにかく、高校を出たあとの八十年代以降の彼とのつきあいは、彼が劇団に提供してくれた絵と人形に集約される。当時は、ばかでかいチラシ・ボスター、三本くんのイラストと、極端に太いゴナUイタリックの文字遣いを決めた。毎回それを踏襲し、宣材の印象を連続性で強めようとしたのだ。印刷は私が家庭教師をしていた先の親父さんの経営する神田の印刷会社にお願いし、私自身も版下を切り貼りして作った。「電算写植」という言葉が流通していた時代だが、経費を惜しんで、もっと安い旧版の字体を選んだ。

三本君は練習中のみならずふだんから水を飲まないようにしていた。運動選手にとって「給水」が大切とかいうことよりも精神論やフィーリングが勝っていた。そういう時代だった。
居酒屋もない田舎だしお金もない十代である、ひそかに彼も含め何人かで夜中の神社に集ってだべっていたこともあったが、彼はほんの少しのビールでも御機嫌になった。
仕草や身体の動きに特徴があって、それは今も思い出せる。
独特の声。口癖は「けなりいのう」だった。「けなりい」は岡山独自の言葉だろう。さいきん中津留章仁君から「大分での『よだきい』という感情」について何度か聞いたが、岡山では「けなりい」なのだ。とはいえ三本君は中学まで転校を繰り返して育ったはずだから、岡山弁のネイティヴではないのである。
思い出すのははにかんだような笑顔だ。あれは笑顔であると同時に、彼なりに世間との緊張関係を吸収する装置だった。

さようならとは言いたくない。そんなに遠くにいるような気がしないからだ。
八十年代のことを考える機会が増えている。『カムアウト』があったせいもあるが、三本くんとの別れがそのことに拍車をかけた。
別れと出会い直しは、紙一重だ。


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