Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

『ここには映画館があった』初日

2013-11-15 | Weblog
パンフレットに記した文を転載します。

 一九七〇年代の映画についての私の記憶は、時に「ウィキペディア」よりも正確だ。「ウィキペディア」の『JAWS』欄の日本公開日が間違っていること(2013年11月12日現在の記載)を、見ただけでわかるのだ。
 架空の場所に設定してあるが、この劇の舞台のモデルというより発想の根源になっているのは、岡山での映画にまつわる体験である。
 私は厳密には「町の子」とはいえないので映画を見に「街」へ行くためにはちょっとした山を越えなければならなかった。もちろん「丘みたいな山」の多い岡山だからたいした山ではないが。
 高校は辺鄙な場所にあったが他に交通機関がないので学校を出てから自転車で「街」へ出て、映画を観たり、休日には「街」までランニングをして映画を観たりした。
 邦画洋画封切館が各四館、後は二番館とポルノの映画館だった。中学一年の時に洋画二番館「カブキ座」が閉館した。邦画二番館の「第二ニシキ館」は今は居酒屋になっている。岡南地区にできたシネコンに押され、「千日前」と呼ばれる商店街の映画地区はほぼ閉館、閑散としている。
 岡山では公開されない映画もあり、次第に隣町の倉敷に電車で観に行ったりした。「三友館」「倉映」が懐かしい。市民の自主上映団体がオールナイトで五本立て上映をしたのが倉敷の「千秋座」だった。その企画で『マル・キ・ド・サド演出のもとシャラントン精神病院の患者たちによって演じられるジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺』を観たが、監督がピーター・ブルックという演劇人だということを知るのは上京後であった。
 長谷川和彦監督の『青春の殺人者』が初めて岡山県内で上映されたのは水島工業地帯の入口にある「水島プラザ」だった。いつも三本立ての映画館だった。
 運動部活動は別にしていたが、高校では映画部の部長も兼任、映画部の予算を十倍に上げさせ、自主映画を作った。
 岡山には「残像舎」という自主上映の組織があって、その御陰でずいぶん自主映画に触れることもできた。岡山で映写技師をしていた人が倉敷で「えいがかん」という自主上映できるスナックを始め、そこで黒沢清監督のできたてほやほやの8ミリ『SCHOOL DAYS』を観たことを憶えている。
 映画を通していろいろなことを学び、いろいろな人に出会った。大学映研や社会人の方々と背伸びして話した。『太陽を盗んだ男』公開のさい宣伝活動に来岡したゴジ監督を、岡山東宝の人に頼まれ、学校をサボって新聞社や放送局にアテンドしたのは、坊主頭の私であった。
 雑誌「ロードショー」の懸賞作文に入選して賞金五万円を得たのは中学一年の時であった。中学三年の時には「キネマ旬報」に投稿が載った。まったく呆れた話だ。
 そんなわけでこの劇は私の体験が「情報」としてはバックボーンになっているが、もちろん自分自身をモデルとした人間が登場するわけではない。現実と創作の関係は、そういうものである。
 岡山以外でいえば、沖縄取材で「キャンプ・ハンセン」に入り、「アメリカの町そのもの」の基地内生活エリアで、大きな映画館を見つけた時の驚きも、鮮やかな記憶だ。
 考えてみれば十代の頃、そんなにたくさんの本数の映画を観られたわけではない。観ていない映画の方が多い。当たり前のことだ。あの頃からの歳月、巷には数多くの映画がある。あの頃、現存するめぼしい映画はいずれ全部見ることができるのではないかと思ったが、到底無理な話だ。
 知っているけどちゃんと話したことはないという人間も多くいるわけで、私たちはいろいろのことを知っているつもりで、実は知らぬままに終わるのだ。
 人間はいずれいなくなるが、「映画」は、「そのまま」を保ち、残っている。昔はそれを映画の美点の一つだと考えたが、今はそのことがひどく残酷なことのようにも思える。疎外であり、虚しさでもある。
 執筆のために昔のキネ旬などひっくり返して眺めていると、ほんとうに、紋切り型の言い方になるが、「昨日のこと」のようである。成長していないのであろう。

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コメント
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